神聖円卓領域キャメロットIII−11


仏教は大きく分けて二つ、大乗仏教と上座部仏教に分けられる。現代では、東南アジアの仏教が上座部で、北東アジアは大乗仏教が主流である。
上座部仏教は自身の解脱による幸福を、大乗仏教は社会としての人間の幸福を目指すもので、アプローチが個人か社会かという違いだ。

初期仏教においては、すべての生命は生まれ変わるものだと考えられた。それは、6つの異なる地獄を巡る輪廻転生、六道輪廻というものだ。
何もかも最悪なまさに地獄界、欲望が尽きることのない餓鬼界、獣に堕落する畜生界、争いを求め続ける修羅界、上げて落とすタイプの天界、そして現世である人界の6つの世界を生まれ変わって巡り続けるのだ。その輪廻から抜け出すことを解脱といい、その先にある境地を涅槃という。

イランで生まれたゾロアスター教が死後の世界を天国と地獄として定義したのに対して、インドで生まれた仏教は別の世界に生まれ変わるとした。インダス川を挟んで東洋では命は巡って続くものであり、西洋は終わりとともに永遠となるのだ。

この決定的な違いは仏教全般に言えることだったが、やがて解脱の方法を個人単位とするか社会単位とするかで上座部仏教と大乗仏教に分かれた。


「仏教は絶対的他者をそもそも求めない。あくまで自己変革によるもので、信仰と組織はそのサポートに過ぎない」

「概ねその通り、もちろん、細かい宗派によっては西洋の神様にあたるような存在を規定するところもあるんだけどね」


日本においても中国においても、土着の神が存在していた。そのため、神への信仰と仏教の信仰はしばしば混同された。


「特に北東アジアの仏教は、六道輪廻の世界を独立した別世界じゃなく、自分の心の在り様だと考えたんだよな」

「ええ。これも宗派によるけれど、六道に加えて4つの世界を含む10個の世界は、自分の心の状態を示すステータスになったの。それが十界っていう考え方。法華経がそうね。あたしは特定の宗派ってわけじゃないんだけど、現代で大きな勢力になるのも納得」


例えば、誰かと比べて競おうとしてしまう、マウントを取りたくなってしまう、そんな心の状態は修羅界であるし、嫉妬や欲望に染まる心は餓鬼界、本能のまま理性的行動を取らないのは畜生界、何もかもうまくいかない、自分はだめだ、死んでしまいたい、そんな状態は地獄界の心であるということだ。
六道輪廻の6つの状態に、声聞界、縁覚界、菩薩界、仏界の4つを加えて十界となる。この考え方は日本や韓国の仏教の主流派である。


「違う世界じゃなくて、自分の心の状態。つまり、十界は最初から自分の心に備わってるの。そう考えたら、仏界だって私たちの心に元からあるものってことでしょ。それは、私たちの誰もが仏様になれる可能性を秘めてるってことでもある」

「西洋の一神教に比べると、本当に現実主義だな。神様に助けてもらうんじゃなくて、自分で自分のマインドを変えることで、自分の力で結果をつかみ取る。そのために信仰がある。哲学から宗教が生まれるインド発祥らしい」

「そうね。ちょっと夢はないかもね。けれど、だからこそ、誰もが尊いのよ。誰もが仏の心を持ってるの。誰もが生きていていいし、幸せになっていいし、そうなれる力があるの。だから、聖抜なんてこと、許せない」

「誰もが尊い、か」


やはり歴史を動かした三蔵の言葉だけある。含蓄ある響きに、過去のことを話そうものなら説法だな、と察してしまう。きっと、三蔵は怒ってくれる。その上で、もう一度同じことを言ってくれるのだろう。


「…あなたが特異点に呼ばれた理由が、なんとなくわかった気がする」

「そう?太陽王も獅子王も、仏パンチでKOしてやるんだから」


空中に掌を突き出す様子を見て、フランスの某体育会系聖女が浮かんだ。しかし、彼女はきっと、相手を倒すためにここに呼ばれたのではないのだろう。
様々な宗教の聖地であるこの場所で、どんな宗教でも変わらない人の命の尊さを、改めて指し示すために三蔵は呼ばれたのだ。


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