絶対魔獣戦線バビロニアI−8


メソポタミア神話の系譜は、ギリシアのそれより簡潔だ。
まず原初の神として、淡水の神アプスーと塩水の神ティアマトがおり、その子供として男神ラフムと女神ラハムが、ラフムとラハムの子としてアンシャルとキシャル、そしてアンシャルとキシャルの子としてアヌがいる。
アヌの子にはイシュタルのほかに、ニップルの都市神であるエンリルや、エア、あるいはエンキと呼ばれる水と知恵の神もいたとされるが、エンキの出自は不明瞭だ。しかしこのエンリルとエンキは極めて重要な役目を果たす。

エンリルはシュメールの神話において、天空神アヌが原初の神ティアマトから主神の座を奪いウルクの都市神となったあと、アヌに代わって事実上の主神となる。エンリルがアヌに取って代わったあと、ウルクの都市神の座もイシュタルに明け渡されたとされる。やがてエンリルもマルドゥークに取って代わられることになる。

一方、バビロンの神話として意図的に作られた物語であるエヌマ・エリシュにおいては、マルドゥークがすべての神とエンリルから実権を奪っていく過程が記される。
アプスーは、ティアマトとの間にもうけた神々の騒々しさに耐えきれず、それらを一掃することをティアマトに提案する。ティアマトは拒否するが、アプスーは一方的に攻撃を開始し、エンキはそれを止めるべくアプスーを殺害する。エンキはアプスー殺害後、ダムキナと結婚して息子マルドゥークを生む。
ティアマトは生き残った原初の神々からエンキへの復讐を求められ戦うことを余儀なくされ、息子キングゥに11人の怪物と天命の粘土板を託した。天命の粘土板には神々の役割とすべての個人の寿命が書かれており、王権の象徴でもあった。
しかしマルドゥークはキングゥもティアマトも倒し、キングゥの血から人間と、ティアマトの体から大地と海とティグリス・ユーフラテスを生み出して、新たな世界秩序を構築した。

神々の争いと、それによる支配権の移り変わりというのは、そのまま人類文明において覇権の交代を意味する。
アヌはウルクの、エンリルはニップルの、エンキはエリドゥの、そしてマルドゥークはバビロンの都市神であり、古代文明において覇権を握った都市の交代が神話における神の交代を意味した。
特にマルドゥークはアッカド人がシュメール人に代わってメソポタミアを支配した過程を意味するものであり、マルドゥークが支配するバビロンが中東世界を支配する中心地となるのである。事実、シュメールにおいて特別な地位であったイシュタルは、アッカドの神話であるエヌマ・エリシュには登場しない。
また、同じくアッカド語のギルガメッシュ叙事詩では、イシュタルがギルガメッシュに差し向けたグガランナをギルガメッシュとエルキドゥに倒されて泣く泣くウルクを去るシーンが描かれる。
ただ、アヌからエンリルへ、エンリルからマルドゥークへと支配権が代わっていっても、イシュタルの地位だけはメソポタミアにおいて変わらなかった。

とはいえ、シュメールにおいて必ずしもイシュタルが優れた存在として描かれるかというとまったくそんなこともない。

確かに、エンキがシュメール文明全体の規範(メー)を司っていた時代には、メーが欲しいとエンキに泣きつき、挙げ句の果てに酔わせてから天舟マアンナにメーを乗せてエリドゥからウルクに見事帰還する物語がシュメール語で描かれる。
一方、アッカド王国の建国者サルゴンの王妃でありシュメール人としてウルの神官でもあったエンヘドゥアンナが描いた詩「滅ぼされたエビフ山」では、イシュタルは凶暴な女神としてエビフ山の根っこを掴んでゆすり、森を呪って焼き払い、「私の勝ちよ!」と罵って終わる。

また、イシュタルが冥界へと下って冥界の女神エレシュキガルと出会う物語においては、シュメール語版の「アンガルタ・キガルシュ」では夫ドゥムジを追ってボロボロになり、アッカド語版ではただ単に冥界を支配しようとして返り討ちに遭う。

このように、イシュタルは様々な側面を持った性格の女神として、ときにディスられ、ときに称えられる、そんな描かれ方をしながら、ギリシア・ローマ文明へと受け継がれていくのである。


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