絶対魔獣戦線バビロニアII−14
正直かなり怖い。だが、自分の力が至らずに誰かが命を落とすところは見たくなかった。第五特異点でのワシントンの戦いや、第六特異点で犠牲になった多くの人々やアーラシュのことなどが頭に浮かぶ。先のニップルでも多くが犠牲になった。
もうあんな思いはしたくない。そのために自分も努力を重ねてきたが、それを上回る災厄が起こる可能性があるとマーリンが言うのなら、それに対応できるように少しばかりずるい手を使ってでも強くならなければならない。
マーリンがかざす手が紫色に輝くと、呼応して唯斗の左手から魔術回路が浮かび上がり、左胸あたりまで広がっていく。青白いその回路の光にマーリンの顔が照らされた、その直後。
「ッ!?ぐ、ぁ、ぁぁあああッ!!」
まるでナイフで腕の筋に沿って切り込みを入れられているかのような、生きたまま捌かれているような、そんな激痛が走った。左手から腕、肩へとその痛みは広がっていき、血が噴き出していないのが不思議なほどの痛みが走る。
咄嗟に、右手でシーツを掴んで握り締めたが、それでもなお痛む。舌を噛まないように歯を食いしばり、唸るような声を上げながら耐える。
「ふ、ぅぐ、ッ、ハッ、あ、!」
「あともう少しだ。頑張れ」
薄目を開けて見れば、マーリンも汗を浮かべていた。口調はいつも通りながら、やはり大変な魔術なのだろう。
いつしかシーツが破れて肌まで爪が刺していたのか、右手の平も痛むが、そんなものは蚊に刺されたようなものにしか感じない。
「い″ッ、ァあ″っ、ぐ、はッ、っふ……」
あまりの痛みに気が遠のこうとした。しかしふと、それが和らぐ。
何かと思って見てみると、光が消え、マーリンが手を下ろしていた。
「…ふう、これで終わった。よく耐えたね」
「はぁっ、ッは、マーリン、」
「うん?」
腰を屈めてこちらに顔を寄せるマーリン。その額に浮かんでいた汗を拭った。左手は動かなかったため、血が付かないよう右手の甲でそっと触れる。
「……大丈夫か、」
「っ、僕の方が先に心配されてしまうとは…恐れ入った。君こそ、体はどうだい?左手はもう少し動かないだろうが、すぐに元通りの感覚に戻る。あぁ、右手と口の中が少し切れてしまっているね、治してあげよう」
マーリンはすっと手を横に払う。それだけで、右手と口内にできた傷が治っていた。痛みが引いて、あとは左腕の鈍い痛みだけが残る。
「これでサーヴァントの長時間の使役や強力な魔術の行使、あるいはその維持ができるようになる」
「……そっか、ありがとな」
礼を言うと、マーリンは体を起こしてから体勢を変え、ベッドの縁に腰掛ける。唯斗の左手のそばに腰を下ろしたマーリンは、苦笑しながら唯斗の頬を撫でた。
「礼を言われてしまうと弱いな。こんな私でも一応、心苦しかったものだから。利己的に考えた結果として君に苦しい思いをさせていたのだからね。まぁ、そんな感情もすべて、これまで人間たちから回収してきた感情の再生産でしかないのだけれど」
夢魔と人間との間の子であるマーリンは、不死身であり、アーサー王治世下であっても変わらず人の夢を食べてきた。それによって獲得した感情を、自分のものとして再現しているだけなのだという。そのため、それは本物の、少なくとも人間と同じものではないのだと。
唯斗は頬を撫でるマーリンの手にそっと顔を寄せてから、マーリンを見上げた。
「たとえただ再現しただけのものでも、それはお前だけのものだろ。俺の感情は俺だけのものだし、マーリンの感情も、その本質がなんであれそれはマーリンだけのもので、マーリンだけに価値のあるものだ。なら、その点は俺たちと変わらない」
「…驚いた。感情など持たない僕に、この再現されただけの、紛い物の感情でも僕のものだと言ってくれるなんてね」
目を丸くしてから、マーリンはふわりと花が咲くように微笑んだ。「私」と言ったり「僕」と言ったりするが、後者は恐らく、より主観的に語るときのものなのだろう。
「紛い物だから美しくないってわけでもねぇだろ。紛い物だろうと再生産物だろうと、あんたの感情も大事なモンだ」
「ッ…困ったな、うん、これは困った」
まだ頭がぼんやりしたまま、それでもマーリンに思ったことを伝えると、マーリンは驚いたようにして、そして本当に困ったように笑う。何か変なことを言っただろうか、いや、というか酷く恥ずかしいことを言わなかっただろうか、とだんだん冷静になりつつある中、マーリンはまだ感覚が戻り切っていない唯斗の左手を持ち上げて、その手の甲にキスを落とした。
「な…っ、」
「ふふ…本気になってしまいそうで、困るな」
「え、何に…」
「おや、言っていいのかい?」
「……遠慮しとく」
「賢明な判断だ。まだ永遠の箱庭に行くには早いだろう?」
本能で首を横に振ったが、マーリンはあっけらかんと笑う。何気にとんでもないことをこの男は言っていないだろうか。それを明らかにしてしまうとどうなるか分からないため、唯斗はこれ以上は何も言わずにいることにする。
とにもかくにも、こちらの準備は整った。あとはギルガメッシュが復活し、ゴルゴーンを討伐し、魔術王の聖杯を回収する。もしもその先があるというのなら、こうしてマーリンに強化してもらった力を使って、一人でも多く守るのだ。