Sunset Undead−15
「な…っ、機内で感染が広がったのか…?!」
『そのようだ。しかも、発症スピードが非常に速まっている。恐らく、数時間から数十分単位だ。これでは、西欧全域にすぐに広まってしまう』
「…いや、すでに広まったとみていい。最悪だ、なんなんだこの変異スピードは…!」
『これはまだ確証がない情報なんだけれど…英国軍曰く、カイロ市内の医療NGOが使用していた医薬品の中に、ベハタール・カル財団の後援企業の医薬品があったらしい。さすがにそれは、欧州や日本でも認可を受けているものだけど、ベハタール・カル財団系のNGOがいたホテルから急速に感染が広がった可能性があるみたいだ』
さすがの諜報能力だ。すでに英国は、エジプトでの感染急拡大の原因を特定しつつあるらしい。国立の研究所にいるジキルだからこそ、知ることができた情報だろう。
「まだエジプト国境で発見された未認可医薬品がどのように作用したか分かってないけど、同じ構造のRNAウイルス用の抗生物質とかなら、可能性は十分にあるな。その医薬品が特定できたら教えてくれ」
『もちろん。NERLIDは君なしには発見できなかった。君の働きなしでこの状況を迎えていたらと思うと…とりあえず、ここからは物理的に退避することが重要だ。宛はあるかい?』
「チェホニーンに打診してみる。ありがとな、助かった」
『お互い様さ』
電話を終えて、唯斗は急いで研究者内に入った。
エントランスから入ってすぐ、受付で唯斗を見たスタッフは速やかに状況を理解して、責任者を呼び出す。
間もなく、背の高い眼鏡の男性が現れた。
「待っていた、唯斗。ただ、残念ながら当方たちと共に研究できる時間はなさそうだ」
「そうみたいだな」
やってきたのはシグルド、出身はスウェーデンで、現在はこの研究所で出血熱などを扱う部門の責任者をしている。唯斗が世話になっていた人物でもあった。
シグルドも当然、この状況を理解している。
「ベルンかチェホニーンがいいだろうか」
「状況的にはチェホニーンの方がいい、ベルンは到着できないと思う」
シグルドは頷いて、唯斗をロビーに連れ出す。少し歩いて広いロビーに入ると、スタッフたちが不安そうに壁の液晶テレビを見つめていた。
英国系のニュースチャンネルで、ブリュッセル空港から始まった感染はブリュッセル市内に拡大しており、すでにベルギー北部の大都市アントウェルペンや、隣国オランダ、ルクセンブルクでも感染例が報告されている。フランス、ドイツでもすでに病院から報告が上がっているそうだ。
EU各国は国境検疫を強化し、英国は国境を一時的に封鎖した。
「見ての通りだ。ベルンはおろか、プラハもギリギリだろう。すぐに紹介状を手配するから、国境付近でできる限り近いところまで向かってくれ」
「シグルドは?ハンブルクに残るのか?」
「先日、君の推奨に従い、非常食などを準備しておいた。このあとすぐ、希望者以外を帰宅させ、住み込みで研究を続けてくれる者だけで籠城する体制を整えよう」
「よかった。BSL-4施設が一つでも稼働してくれてれば、まだなんとかなる。この感染速度だ、緊急のロックダウンがすぐにでも発出されるな」
スーダンやエジプトの凄惨な光景を見てきた欧州諸国は、すでにロックダウンを実行する準備を整えていたはずだ。
そうなれば、公共交通機関はすぐにでも停止されてしまう。できる限りチェコに近づくために、まずはここから陸路でベルリン、ドレスデンと移動していく必要がある。
インフルエンザなどと違い、接触さえしなければ絶対に感染しないものだ。外出禁止となれば、いったん拡大は落ち着くはずである。
それから10分としないうちに、唯斗のためにチェコのチェホニーンにあるBSL-4施設の研究所の紹介状をシグルドが用意してくれたため、唯斗は荷物を置くこともなくハンブルクを離れることになった。
研究所を出て、最寄りの在来線Sバーン1号線の駅であり地下鉄も通っているランドゥングスブリュッケン駅に向かう。
そこから電車に乗ってハンブルク中央駅へと移動していくが、特に電車内や町中に変わったところは見られなかった。
恐らく平常バイアスだろう。非常事態が発生した際、パニックになるのを防ぐため、脳が勝手に「これは日常だ」と思い込もうとする。意図的にリスクから目をそらすことで混乱を防ぐことはできるが、一方で危機意識が薄れてしまう。津波からの避難が遅れる主要な原因の一つでもある。
すでにフランクフルトやデュッセルドルフでも感染が始まっている状況だ、この大都市でも当然、今日にでも感染が始まっておかしくないはずなのに、人々はいつもの日常を謳歌している。
キャリーケースにリュックを置いた状態でスマホを確認し、各地の研究所やWHOから次々にやってくるメッセージを捌いていく。メディアからのものは総じて後回しだ。