覆水盆に返らず−8
ランサーは人好きのする笑顔のまま、その紅の瞳に殺気を漲らせる。唯斗は手でそれを制してから、まだ床に膝をついたままの天草を見下ろす。そして、少し考えてから口を開いた。
「…いや、いい。退去はさせない。これからも戦闘に出てもらう。今更ここまでリソースを割いた戦力を失うわけにはいかない」
「マスター、それでまたこいつが裏切ったらどうするつもりっすか。今度こそ寝首かくかもしれねぇんすよ」
マンドリカルドは、唯斗がそれを考慮していないわけがないと理解した上で、それを尋ねる。全員の目を受けながら、唯斗は淡々と答える。
今もなお、先ほどと同じように、一切の感情が動いていなかった。
「大丈夫だ。サーヴァントに裏切られることも、今後のリスクとして想定して行動する。もとはと言えば、俺がマスターである自覚も薄く、天草に隙を見せたのが原因だ」
そう言うと、ロマニはじっと唯斗を見つめる。
「それは、天草に心を開いて、良い関係を築いていたことが、すべて『隙』という一言で片づけられる、ということかな」
「あぁ。全部、余計で余分だった。俺はただのマスター、人理修復のためにサーヴァントを現世につなぎとめる楔だ。マスターという機構でしかないはずなのに、個人的な関係を築こうとしたのが余計だった。人間として未成熟で不完全な存在なのに、分不相応だった。それだけのことだろ」
「それは違う、それは違うよ唯斗君」
ロマニは食い気味に否定する。唯斗はその優しい表情が心配に歪むのを見て、この表情を見るのは何度目だろうと自嘲する。唯斗はロマニを心配させてばかりだった。
「いいよロマニ、俺には過ぎたことだった。魔術師なんてみんなそんなもんだ。ただの装置以上の価値なんてなかったのに、みんなが俺に優しすぎただけなんだ。サンソンやマンドリカルド、ランスロットに不快な思いさせた時点で弁えるべきだったのにな」
「唯斗君、」
「ロマニ。いいから。人には向き不向きがある、俺に普通のコミュニケーションも、だれかとの良好な関係も、向いてなかった。俺のただ一つの存在意義である、人類最後のマスターとしての機能を果たすには、そういったものは邪魔になる。少なくとも俺という装置には邪魔なものだった」
唯斗はただの機構、装置、機能であるべきだったのだ。それを、優しい英霊たちに甘えて忘れていた。だから、天草が心を痛めながら、その隙をついて自身の目的を果たそうとする余地を生んでしまったのである。
ロマニだけでなく、天草も呆然としている。覚悟の上、と言っていたのに、天草も大概、優しすぎる。
「天草、これは俺の問題にも起因することだったから、特に退去も処罰もない。代わりに今後もこき使うし、また裏切るようなことがあれば、都度、その場の英霊たちで『処理』する。それでいいな」
「な…マスター、それは…いいえ、私のことはこの際どうでもいい、けれど、私の行いとあなたの人間的な成長はまったく別です。あなたが育んできた感情は、無駄でも余分でもない、大切なものです」
「はは、それをお前が言うのか」
「っ!」
天草は息を飲む。唯斗は苦笑して、話は終わりだと踵を返す。
「お前もロマニも優しいから、それは違うなんて言ってくれるけど、それですら俺には過ぎた優しさだ。俺の人生には本来不要なものなんだよ。どうせ人理が修復されれば、俺はまた一人で、だれとも関わらずに生きていくんだから、元からいらないものだった。気を遣わせて悪いな」
ランサーとダ・ヴィンチはあえて何も言わなかった。マンドリカルドは、何も言えなかった。恐らくはそんなところだろう。
そして、天草とロマニは、きっと言葉が見つからなかった。
それでいい、唯斗にはそんなものは不要だ。不要であるはずだった。それを忘れていたこの半年が異常だったのだ。
ズキズキという胸の奥の痛みは最高潮に達していたが、不思議と、気にならなかった。