覆水盆に返らず−9


ロビンは食堂で食事を受け取って、トレーをもって自室に向かってしまった己の主を見て、何度目かも分からないため息をついた。

マスターこと唯斗が笑わなくなって、すでに半月が経過した。その原因は言わずもがな、天草の裏切りである。

カルデアが爆発テロに巻き込まれ、そのままなし崩しにグランドオーダーが始まってすぐ、フランスへの特異点にレイシフトしたときから唯斗を支えていたのが天草だった。
最も長い時間を過ごした相手であり、恐らく、唯斗が最も信頼して心を開いていた相手でもある。

ロビンはその後、ローマからの参戦となるため、カルデアでは長い方ではあるものの、天草ほどの時間を共にしていたわけではない。それでも、唯斗はロビンと一緒にいることが楽であったようで、人間一年生な不器用さながら、愚直にロビンと誠実なコミュニケーションをしてくれていた。
そんなマスターを大事に思わないはずもなく、ロビンはなんだかんだと世話を焼いていた自覚はある。

自惚れではなく事実として、天草の次に唯斗が心を寄せていたのがロビンだろう。ランサーとキャスターのクー・フーリンも同じくらいといったところか。

そんなロビンやクー・フーリンたちですら、もう半月、唯斗の笑顔を見ていない。確かに最初のころも同じように笑わなかったし、冗談はおろか余計な会話もしなかった。しかし最近は、冗談を言うこともあれば気安い会話も見られた。
第五特異点の前に、サンソンやマンドリカルド、ランスロットとのコミュニケーションを巡って自信を失っていたところに天草の一件だ、他者との関わりを諦めてしまうのも無理はない。
最も苦しいときに助けてくれて、ずっと一緒にいてくれた相手に裏切られてしまったのだから。

笑顔もちょっとした会話もなく、食堂で話しかけられることが煩わしいのか食事すら自室で行う唯斗の様子に、ロビン以外のサーヴァントたちも当然気づいていたし、当然、その怒りは天草に向いていた。

最初は唯斗が不問に処すならと控えていたサーヴァントたちだったが、唯斗の様子が変わってしまったことが確定的になった先週あたりから、一部のサーヴァントたちが天草に個人的な制裁をしに行っている。シミュレーターという痛みなどのフィードバックがない場所であっても、さすがに生きたまま内臓を抉り出される経験は精神的に来るものがあったことだろう。
そうしたものに、ロビンは参加していない。それをためらうほど、天草自身も追い詰められていた。それはサーヴァントたちの私刑によるものではない。むしろそれは、天草の心を楽にしてすらいる。

天草もあれで聖人と称される人物だ、基本的にその性根は善良で、善として悪を成すタイプの人間である。だからこそ、唯斗が自分の人間性を否定して、それを育んできたことも否定して、これからそれを成長させることも否定してしまったことに、そしてその結果として笑わず隙を見せない態度になってしまったことに、ひどく憔悴していたのだ。

同情はしないが、無意味なことだと思うには十分で、ロビンは天草に何かするつもりはない。それはランサーやキャスターも同じだったようで、なんとかして唯斗を以前の状態に戻そうと躍起になったものの、今のところ、唯斗がロビンたちの試みに応じることはなかった。
ただ、申し訳なさそうにして、「そういうの大丈夫だから」と答えるのだ。


「せめてマスターが、心の拠り所を他にも持っていたら良かったんですがねぇ。どう思います?先生」

「……当てつけかな」


ロビンは食堂のテーブルに肘をついて、通路を挟んで反対の席にいたサンソンにとげとげとした声で意見を問う。サンソンも、自分が拒絶を示してしまったことが事態の悪化に拍車をかけたことを理解している。
それでもなお、今もサンソンの向かいに座るマリー・アントワネットと再会できたことで笑顔を見せて吞気に茶会をしていることに、ロビンはわりと、いら立っていた。


「いけないわ、ロビン。サンソンだって苦慮しているのよ。フランスでの記録を見て、とても自分を責めていたわ」


マリーはサンソンのフォローをする。サンソンは第一特異点の記録を見て、唯斗が敵だったサンソンに対して伝えた内容を知った。サンソンを思うその言葉に、自分の態度を反省したときにはすでに遅かったという。だがロビンはそうだろうか、と訝しんでいる。


「結局自分のことしか見えてねぇんですよ。自分を責める前にマスターを大事にしてやればよかったんだ」

「……返す言葉もない」

「ではあなたはそうしたの?ロビン。他の英霊たちとマスターがうまくやっていけるように、怒りではなく優しさを見せたことはあって?都合よくマスターと一緒にいる時間を優先しなかったか、と問われてなんと答えるのかしら」

「…言いますね、王妃様」

「ええ、それは私にも当てはまることですもの。結局のところ…誰が一番悪い、なんて考えても仕方のないことだわ。マスターの国ではこう言うのでしょう?『覆水盆に返らず』と」


マリーの指摘は、正直ロビンにとって図星だ。サンソンやマンドリカルドたちとのことを聞いたとき、怒りはあったが、同時に、自分がマスターのそばにいられる時間が相対的に確保できると踏んでいた。だから、わざわざ説得するようなことなどしなかった。

本当は、唯斗がもっと多くの英霊と話して、もっと多くの居場所を見いだせるようにするべきだった。それが健全な成長のためになったはずだし、それを理解していた。


「もう元には戻りません。マスターが失ってしまったものは…私たちがマスターとの間から無くしてしまったものは、決して元通りにはならない。だから、これから新しく作っていくしかありません。根気強くね。私たちがそれを諦めることだけは、あってはならないわ」


マリーは常に前向きだ。彼女の言う通り、これから再構築していくほかないだろう。ロビンもランサーたちもそれは認識している。

しかし、どうやって唯斗が再びサーヴァントたちを心から信頼してくれるようになるのか、そればかりは、誰にも分からなかった。



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