Égalité−1
Libertéの続き
学生ギャラハッド(+サンソン)×金融マン主
太陽が沈む夕暮れの空、鮮烈なオレンジが雲を照らし、空は東に向かって群青色にグラデーションで変わっていく。
そろそろ帰らないと、と思いながら、幼い唯斗は暗がりの空き地に聳えるメンヒルという巨石の前に蹲る。周囲の畑の向こうに見える素朴な住居には明かりが灯り始め、駅からは在来線がやってくる電車の音が聞こえてくる。
唯斗は立ち上がり、畑の間の粗末な道を歩いて進み、大きな邸宅の庭園を横切って建物に入った。一昔前の典型的な貴族の屋敷のようないで立ちだが、赤い絨毯は擦り切れている。
「こんな時間まで出歩くなんて」
玄関の音に気付いた女性が玄関ホールに入ってくる。エプロンをした中年の女性は伯母だ。
きつい目線を向ける伯母と目を合わせることはできない。
「…ごめんなさい、おばさん」
「なんだいその汚い発音は!」
乾いた拍手のような音とともに頬に引き攣るような痛みが走り、強引に揺れた視界に絨毯の色がちらつく。頬を叩かれたのだ。
「その中途半端な黄色猿の成りそこないみたいな見た目に相応しい、潰れたカエルのような発音だね。あーやだやだ、アジア人なんて見るのも嫌だってのにそのうえこんなフランス語まで聞かされるなんて!あたしはなんて不幸なんだろう!!」
一歩屋敷を出れば、伯母は優しく気のいい人物として近所に知られている。本当は人種差別に汚染された保守的な人物で、当時フランスで極右政党がまだ隆盛していなかったため屋敷の中でしかこんなことは言わなかった。
伯母の声はリビングにいるであろう父にも聞こえているはずだった。しかし助けることはおろか、日常の会話すらない。そんな男を、父だと認識するには似たようなアジア系の血が入った見た目に頼るほかなかった。
誰も唯斗のことを見ていなかったし、存在を疎ましく思っている者しか周りにいなかった。そんな状況で唯斗が一人でも生きていけるようひたすら勉強するしかなかったことは、今でも当然だろうと思う。
フランス語を必死に上達させた理由も、英語など様々な勉強に励んだ理由も、すべて自分で自分に居場所を与えるためだった。
結局、意気揚々と日本に移ったものの社会の質の低さに落胆し、日本の会社なんかで働けるかとルクセンブルクにやってきてしまったわけだが、それができたのも過去の努力の賜物だ。
しかしサンソンと出会ったことで、そうしたことのすべてが本当は誰にも煩わされない自由な生き方をしたかっただけだと分かってからは、フランスも日本も嫌いではなくなった。いや、嫌いだというモチベーションでしか、足を前に進めることができなかったのだ。
***
久しぶりに嫌な夢を見たな、と唯斗は寝起きの頭でぼんやりと考えた。
冷房のない建物が多いルクセンブルクの例に漏れず、このアパートも冷房がなく、8月に入って熱波がやってきたここ数日の寝苦しさで幼いころの夢を見てしまったのかもしれない。
昔、父の実家があるフランスのブルターニュ地方北東部、ドル=ド=ブルターニュという街に暮らしていた頃の夢だった。ドルの街にはメンヒルという石器時代の巨石文明の名残があり、9メートルもの細長い巨石が平原に屹立している。
面倒を見てくれていた伯母の近くにいるのが嫌になったとき、唯斗は決まって屋敷から少し歩いたところにあるメンヒルのそばにいたものだ。
今では唯斗は手に職つけてフランスの親戚とはやり取りがなく、父がいまだに暮らしているドルには訪問すらしていない。
ルクセンブルクに来てからは一人でずっと過ごしていたが、先日出会ったフランス人でオランダの病院で働くサンソンとよく会っている。サンソンはパリの実家が嫌で、家業の医者を強引に継がせようとする両親に辟易としていたところ、唯斗と出会って同じ境遇だと知った。そして唯斗と同じように、パリや親が嫌だったというより、ただ自由になりたかっただけという本当の願いを自覚し、今では唯斗と一緒に日本に移住してカフェを開くということにまでなっている。
あまりに電撃的な話の展開だが、すでにサンソンは学費の借金を両親に返すことは可能であり、その後の生活は日本で唯斗と共にするということで親とは離別するそうだ。相当に喧嘩したようだが、サンソンの意思は固く、親子喧嘩を法廷で行う用意があるとまで述べたことで、両親が折れて決着したらしい。
サンソンは研修でこの街に来ていたが、唯斗となるべく一緒にいるためそのまま夏季休暇を取ってまだこの街に滞在している。毎日のように会っていたが、今日サンソンは一度オランダの家と職場があるライデンに荷物を取りに戻っている。
「…買い物しねぇと…起きるか」
どちらにせよ暑くて寝ていられない。午後は図書館でも行って涼むのがよさそうだ。その前に涼しい午前中で買い物を済ませる必要がある。
起き上がっていつもの支度を済ませ、効率的にものが配置された(サンソンは「汚くはないですが片付いてもいないですね」と言っていた)部屋で簡単に朝食を済ませてから、ジーンズに黒いシャツというラフな格好で外に出た。