Sunset Undead−34


「…これが例えばコロナウイルスだったら、2003年のSARS(重症急性呼吸器症候群)や2012年のMERS(中東呼吸器症候群)でスパイクタンパク質の解析も進んでいたから、たとえ新種のコロナウイルスが流行しても、1年程度でワクチンを大規模に接種できたと思う。でもERLVの元になってるエボラウイルスはそもそも未知の領域が多いんだ」

「しかし、君だけでなく誰かが解析できれば、すぐにワクチンの開発に取り掛かれるのかい?」

「そうだと思う。公式な発表ではないけど、米国のカンファレンスで製薬企業の開発部門と話したときに、mRNAワクチンの研究は最終段階で、標的となる遺伝子配列さえわかればすぐ開発できるフェーズにあるって聞いてる」

「では、世界の他の誰かが成し遂げてくれる可能性もあるわけだ。唯斗がそこまで気負う必要もないさ」

「あー…まぁ、な。とはいえ、エボラ自体の未解明部分が多い状態で、わけわからない変異をして狂犬病とも合体したキメラみたいな怪物ウイルスだ。正直、現段階でこいつを一番解析してきたのは俺みたいだし、エボラウイルスも俺の専門領域だった。ハンブルクの研究所が落ちた今、熱帯性の出血熱ウイルス研究で世界トップの研究所はベルリンとマールブルクだけ。その二つもいつまで保つか分からない。そこもダメとなったら、いよいよ俺が一番近いところにいるってことになる」


別に正義のヒーローになりたいわけではないし、そもそも実際にワクチンを製造するのは米国の製薬企業であって唯斗ではない。唯斗は前提となる知識を世界に共有するという、下準備が仕事なのだ。
ERLVは唯斗が発見し論文を書いて、WHOや各国に情報提供をしてきたものであるため、このフィールドにおいても、唯斗が第一人者扱いである。


「…それに、俺なり誰かなりが解析を終えたとして、早ければそこから1年2年でワクチンができる。そうなれば、mRNAという新しいタイプのものである上に開発期間が短すぎるっていうんで、きっと変な噂が流れる。遺伝子が改変されるとか、ワクチンを打った方が感染しやすくなるだとか。mRNAワクチンの最初の1ページとなるこのパンデミックでは、感染症そのものだけじゃなく、そういう情報汚染や陰謀論とも戦うことになるだろうな」

「その後もやることは続く、ということだね」


開発期間が速いのは当然だ、そもそも従来のワクチンとまったくプロセスが異なるのだから。DNAは変異しないし、感染しやすくなるなど作用機序としてありえない。
なんなら、いずれインフルエンザワクチンなど他の既存ワクチンもmRNAワクチンに切り替わるだろう。


「そういえば、もう一つ並行して研究すると言っていたけれど」

「そっちは実験や治験と言った方が正しいな。俺はあくまで監督役として入って、主担当者を別に設けるつもりだ。既存の医薬品の中に、RNAウイルスの増殖を食い止める機序を持ったものがあるんだよ。エボラウイルスに対しても効果を発揮した」

「そんなものがあったんだね」

「日本の製薬企業が作ったファビピラビル、製品名はアビガンだ。感染中に服用すると、薬品の物質が感染細胞内で複製されているRNAに取り込まれ、取り込まれた箇所から先にRNAが伸びていくのを阻害する働きがある。現状、対症療法として最も考えられるのはファビピラビルの服用だ」


RNA伸長阻害薬として分類され、タミフルのような他の抗ウイルス薬とはまったく作用機序が異なるものだ。催奇形性があるため、妊婦の服用は許可されていない。また、副作用も強めであり、現状ではあまり安全な薬とは認識されていない状況だ。
それでも、重症化を防ぐ、死に至る危険を防ぐというような極めて重篤な状況でのみ服用されることがある。実際、それなりの数のエボラ感染者が服用して、体内のウイルスが消滅して生還している。


「ただ、これは感染直後に服用することが重要だ。エボラの場合、数日でも遅れれば死に至る。NERLIDは感染直後に発症してしまうから、従来の使い方ではできないだろうな」

「というと?」

「事前に服用するんだ。例えば、今も感染した都市では軍や警察が救助活動や物資の配給を行ってるけど、そうした人たちが事前に服用することで、噛まれたときに発症や致命的な症状の発現を遅らせることができる。その隙に、さらに投与してウイルスの消滅を図る」


そもそもこの病は、物理的にゼロ距離で接触しなければ絶対に感染しない。感染者と接触しないよう隔離することが第一にして最大の対処法である。
それでも感染者に近づかなければならない場合にのみ事前服用しておくのである。


「すでに感染が起きている欧州では、とにかく建物から出ないことを徹底するしかない。それを成立させるには、確実に軍や警察による安全の確保と生活必需品の供給、インフラの維持を続けること。対症療法の確立はロックダウン成功の鍵にもなる」

「ちょっとした買い物もだめということだね」

「絶対にダメだ。インフルエンザやコロナのような感染症でロックダウンをするなら、スーパーやコンビニを開けることもあるだろうけど、NERLIDは危険すぎる。都市のどこに感染者が現れるかも分からない状況だしな」

「では、明日のうちに私の方で必要そうなものは揃えておこう。恐らく、明日にもスウェーデン全土がロックダウンになるだろう?」

「…そうだな、頼んだ」


デンマークと橋で繋がった場所から感染が始まるのは、今晩か明日の明朝になるだろう。このストックホルム首都圏に到達するのは時間がかかりそうだが、パニックは恐らく伝播するため、人の移動は止められない。
移動してしまった人々は自己責任でなんとかしてもらうとして、都市に残った住民は建物に籠城することになる。

ここからが、人類とこのウイルスとの戦いの始まりだ。



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