Sunset Undead−36


夜も過ぎた午前1時、唯斗はラボからアパートメントにようやく帰宅した。シャワーと着替えのために一度帰宅してはいたが、しっかり睡眠をとるために戻ってきたのは二日目ぶりほどとなる。昨晩は研究所で仮眠という名の寝落ちをしてしまった。

そっと扉を開けて室内に入ったが、リビングからはパーシヴァルが出迎えてくれた。


「おや、おかえり唯斗」

「え…起きてたのか。起こしたか?」

「いや。君のために起きていた、と格好つけたいところだけれど、残念ながら傭兵として睡眠時間は少なくしているんだ。こういうのは習慣がものを言うからね」


どうやらパーシヴァルは、要人警護が多いこともあって睡眠時間を少なくしており、その習慣のため、この時間でも起きていたらしい。起こしたわけではなかったのなら良かった。
息をついてリビングに入るが、ふと変なことを言っていたのも思い出す。


「…いや、別にわざわざ格好つける必要ないだろ」

「はは、そうかな」


遅れて気づいたからか、パーシヴァルは軽く笑ってキッチンに向かう。


「だが、この習慣のおかげで、こうして帰ってきた君に温かい飲み物を用意することができる。紅茶でいいかい?」

「ありがとな」


適当にジャケットを脱いでラックにかけて、ソファーに座り込む。窓の外をちらりと見るが、暗い街中は特に変わった点はない。

ストックホルムは現在、完全にスウェーデン軍によって封鎖されている。というのも、もともとこの街はメーラル湖という巨大な湖がバルト海と接続する、非常に複雑なリアス式海岸になっているため、地形を利用して物理的に封鎖することが可能なのだ。

市街地はメーラル湖とバルト海を僅かに隔てる海峡に位置し、北岸からせり出した半島の先と、南岸との間にある複数の島々に渡って広がっている。
このうち、ガムラスタンという旧市街の小さな島が古い中心であり、クングスホルメン島、ゼーデルマルム島、そしてこれらの島に北で接する半島の先端にあるノルマルム地区などが市街地の中心だ。ノルマルムにはストックホルム中央駅やビジネス街が広がる。

ノルマルムから半島を北上したところにカロリンスカ研究所があり、研究所を中心として半島を東西に結ぶラインが最終防衛線となっている。
現在はさらにその北、スンドビュベリやロースンダ、ソルナ市街地を丸ごと含むより長いラインが生きており、ここで検問を行い、大通りに沿って物理的に軍用車の壁が築かれている。

この陸上ラインの他はすべて橋が防衛線となっており、点で防御できるようになっていた。
海上では海軍と空軍が常に巡回し、接近する避難船をすべて拿捕して対岸に移送する。

こうした物理的な防衛が功を奏し、現在、ストックホルム市内に感染者はいない。ただ、スウェーデン全土では、避難した欧州市民からの感染が広がり、3万6000人の感染者が出ていた。


「はい、どうぞ。クッキーは食べるかい?」

「あー…や、紅茶だけでいい。ありがとな」


そこに、パーシヴァルが紅茶をもってきて、ソファーの前のローテーブルに置いてくれた。このテーブルはECDCの担当者が用意してくれたものだ。
食器や日用品などまとめてすべて買ってくれたパーシヴァルのセンスは良いようで、このカップもオシャレなデザインをしていた。

食糧供給はスウェーデン軍が担っており、今のところ市内では全住民に配給ができている。研究所にも備蓄があり、二人は非常食を中心に、たまにパンやお菓子など市内でまだ生産しているベーカリーのものを配給でもらっていた。

右隣に座ったパーシヴァルも紅茶を飲んでいる。それ以外の物音はなく、静かな深夜のリビングには、時計の針の音だけが響いていた。たまに、外から軍の車両の音がするくらいだ。

たとえストックホルムが平穏でも、ドイツやベルギー、フランス、そして中東の国々ではいまだに悲惨な状況が続いている。数日以内に感染者は1億を突破し、それはそのまま死者数に置き換わる。今年、世界人口は初めて減少に転じるだろう。

唐突に無力感が突き上げる。このまま何も得られないのではないか、ただ無為に時を過ごすだけなのではないか。
すでにいくつかの検体の全ゲノム解析は終えており、ハンブルクで初日にやったデータもあって、今はmRNAの特定と分析を進めている。ただ、検体ごとのバラつきが大きく、変異株ごとの差異も大きい。あまり進んでいるとは言えない進捗だ。

これから世界がどうなっていくのか、こみ上げる不安を紅茶の水面に映していると、ふと、パーシヴァルは家族の心配がないのか気になった。
英国の傭兵会社に勤めており、自身も英国の生まれだろうが、現在英国でも感染が急拡大している。ただ、傭兵の家族のことなど聞いていいのか。

何より、聞いたところでどうするのか、と唯斗は我に返った。
「心配だな」としか言えない立場であり、一刻も早いこのウイルスの撲滅には、唯斗がやっている研究が必要不可欠なのだ。そんな唯斗の立場で何が言えるというのだろう。



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