華胥は隣に−5
立香の禅譲から1年半が過ぎた。
張角たちと進めていた国民の移送はあらかた完了し、現在の国内人口は僅か45万になっている。一方、範、奏、漣を中心とした周辺国に渡った荒民たちは、立香の前の時代からの分を含めて100万近くに上っている。これは前例のない数字だ。
いくら隣国が長期政権で安定しているとはいえ、これほどの数ともなると相当な圧迫になっていることだろう。それがきっかけで国が傾く恐れすらあるというのに、よく引き受けてくれたものだ。
現在、40万人はすべて節州内に移住しており、永湊地方にも5万人が移住している。なるべく一か所に集めることで軍の防衛をやりやすくしており、大まかな数には計上していない各州に残った僅かな人口も州都に集めている状態だ。
こうして民を溢れる妖魔から守り、食糧供給を効率化し、ほそぼそと国家の運営を維持している。
この日も、朝議では現在の生活状況についての報告が行われた。
「配給は問題なさそうだな。じゃあ次、蘭陵王、永湊で始まった疫病の様子は?」
「病は永湊市内で流行しており、すでに周辺集落でも確認されています。軍を通して、節州内でも広がるのは時間の問題でしょう」
「…、冬官長。医薬品の配給はどうだ?」
「物資不足ですねー。これはあれです、無理です。もともと住民の健康状態が良くないので、体が自然に持っている抵抗力がないんですよ。ゆうせ…ええと、限られた医薬品の提供順序については、こちらで秋官長と調整しておきますよ」
蘭陵王、徐福それぞれからの報告に、唯斗はギリギリのところでため息を堪えた。少しだけ感じた眩暈も押し殺す。
ここにきて突然始まった疫病によって、南部を中心にバタバタと人が死んでいる。徐福の言う通り、人々は弱り果てており、もはや病に打ち勝つ体力がない。
妖魔や災害から住民を守るためには、一か所に集めて軍でまとめて守護し、ついでに食糧などの供給も効率化することが効果的だ。しかし、病はその政策の欠点を端的についてきた。
人が集まっているため、感染症の流行は防ぎにくいのである。
恐らく徐福は、医薬品の提供に優先順位をつけて、国家の維持のため、子供や若い世代から救援し、老人世代は切り捨てていく必要があると言おうとしたのだろう。だがそれを口にすれば、その言葉を聞くだけで、麒麟である唯斗は卒倒しかねない。
だからこそ、徐福は言葉を濁して詳細なことは官で引き取ると言ってくれた。
これ以上の人口減はいよいよ国家の維持そのものが怪しくなってくる。かといって国外の民を呼び戻せる状況ではない。
どうしたものか、と意見を募ろうとした、その時だった。
「…、あ、れ…?」
「台輔?どうされました?」
すかさず蘭陵王が心配げに聞いてくる。動きを止めた唯斗は、遠くからかすかに感じた気配にざわりと鳥肌が立つかのような感覚を覚えた。
それは直観だった。間違いない、一度感じたことのあるものなのだから。
がたり、と椅子を倒して唯斗は勢いよく立ち上がる。
「ッ、戸を開け!」
そしてそう叫んだ直後、唯斗は人型では見えない角に力を籠めて姿を変える。麒麟が人の姿から獣の姿に戻ることを「
転変」という。
転変した唯斗は、朝議の卓を前にその真の姿を見せた。呆気にとられた官たちの中で、さすがというか、真っ先に動いたのは張角だった。
「台輔が外出される!屋外への戸をすべて開放せよ!!台輔、数瞬待たれよ」
衛兵たちが慌ててすべての戸を開く一瞬の間に、気を取り直した蘭陵王が即座に唯斗の外套だけを唯斗の首に括り付ける。
「恐れながら失礼いたします」
『ありがとう』
麒麟の姿でも、声はそれぞれの耳に直に届くようになっている。
転変した状態からもう一度人の姿になるときは「
転化」というが、衣服を纏っていないため肌を見せることになる。それを気にした張角と蘭陵王の配慮によって、外套だけを持たせてもらった形だ。
『少し空ける。任せた』
「はっ」
応じた蘭陵王を見遣ることすらせず、唯斗は勢いよくその場を飛び出した。衝撃でひらりと紙が舞ったが、たったそれだけだ。
この世界で最も速く、美しく飛ぶ生き物が麒麟である。
目を丸くする衛兵や官吏たちの目線を一瞬で振り抜きながら、唯斗は正殿を飛び出して、晴れ渡る青空の下を駆け上がる。
四足歩行の馬にも似た、されど高貴な姿とされるが、一心不乱に空を駆ける姿は獣めいているかもしれない。髪が他の麒麟より非常に短い唯斗は、鬣も短く、風にたなびくことはないだろう。
だが見た目など気にしている場合ではなかった。この先、国境を越えた奏の領土内に、最も待ち望んでいた人がいる。