華胥は隣に−7
突然、ただならぬ気配を感じて、黄飛虎はバッと空を見上げる。ほぼ同じタイミングで呼延灼と太公望も空を見上げており、遅れて、広場に集まっていた人々も三人の目線を辿った。
青空を文字通り駆け下りてくるのは、あまりに優美な茶色い姿。
一瞬、茶色い妖獣かと思ったがすぐ否定する。あれほど高貴で美しい姿は、妖獣であるはずがない。まさに神の生み出したものに他ならない。普通はより黄金に近い色をするものだが、赤銅に近い色をしているようだ。
いつも飄々としている太公望ですら唖然としている。
それは麒麟。この世界で最も気高く美しい神獣であり、王を除いて最高位の生命。
ふわりと広場に着地した麒麟のあまりの神々しい姿に、集まってきていた人々は一斉にたじろいで後ずさる。
ゆっくりとこちらに歩いてくると、黄飛虎の前で立ち止まる。
まさか、と愕然としていると、麒麟はパッと光に包まれた。直後、光が消えると同時に人が現れる。あらかじめ首元に添えていた外套だけを纏った裸の姿だが、それが人目に晒される前に、麒麟はその場に跪き、額と手を地面につけた。
伏礼という最上位の礼であり、麒麟は王にしか伏礼することができない。その事実はあまりに有名で、集まった人々も言葉を失いながら、徐々にこれから起きようとしていることを理解し始めていた。
「御前を離れず、詔命に背かず、忠誠を誓うとご誓約申し上げます」
沈黙の中、風だけが広場を吹き抜ける。誰もが言葉を発せない中、黄飛虎は目の前の事実をなんとか飲み込んで、その代わりに一言告げる。
「……許す」
それが、麒麟の神託に王となる人物が返すべき返答である。この言葉をもって、黄飛虎は、王となった。
王になれるのは国籍のある国においてのみ。自然と、この麒麟が采麒であり、自分が采王になったのだと理解できる。
黄飛虎の返答を聞いた瞬間、采麒は勢いよく顔を上げた。目を見張って黄飛虎を見上げ、そして、その美しい瞳から、ボロボロと涙をこぼした。
「ぁ…しゅ、じょう…」
「うむ、某に務まるかは分からん、がっ、?」
主上は王への敬称であるが、そう呼んだ直後、采麒は目からあふれる零をそのままに、外套がずれるのも構わず、黄飛虎の袴を縋るように掴んだ。
「どうか、どうか、才を…っ、民を、お救いください…!これ以上は、もう…だから、どうか…っ!」
「…ッ!!」
その瞬間、黄飛虎は自分を殴り殺したくなった。
合わせる顔がないなどと王宮への帰還を何かと理由をつけて避けていた一方で、この1年半、采麒は穢れに病むことすら厭わずに才を守り続けていた。
仁の生き物である采麒が、荒廃する国を前にどれほどの想いでいたことか。どのような葛藤の末に、民を国外に避難させ、残された民をかろうじて生かして来たか。
よく見れば、髪は乱れ肌も少し荒れている。雲海の上を最大限の速さで駆け抜け、近くの奏の州城から下界に通してもらい、高岫山まで駆けてきたのだろう。いくら世界最速の生き物と言えど、一国を超えるのは相当苦しかったはずだ。
一秒でも早く、采麒は王を登極させて、才の民を救いたいと願い、ここまでやってきた。
王のない中で必死に国を支えてきたこの1年半、どんな想いだったのだろう。
そう思ったら、黄飛虎はより一層自分を許せないような気がした。しかしそれは、自分への罰ではなく、才を治めるという形でしか返せない。
黄飛虎は膝を折ってしゃがむと、そっと自分の白い袍を外して重ねるようにして采麒に被せ、そのまま抱き締める。腕の中で震える聖なるものは、まず第一に、黄飛虎が守るべきものだ。
「安心しろ、もう大丈夫だ。約束しよう。才は必ず、某が守る」
ようやく、広場に集まっていた人々はわっと歓声を上げた。ようやく新たな王が才に誕生したことを祝っているのだ。王がいるだけで国は落ち着くし、そうすれば妖魔も出なくなり、ひとまず元の土地に戻って生活を再建できるからである。
すぐに、慌てて冷静な者たちが平伏を促し、一斉に人々は平伏していく。太公望、呼延灼もその場に平伏した。
広場の群衆が全員地面に手足をついて跪く様子は圧巻だ。何事かと様子を見に来た他の人々や奏の役人もぎょっとしている。
それが、新たな才の最初の一歩だった。