華胥は隣に−10
「…そうだな、あんたがさっさと、太公望たちを連れて戻ってきてくれていれば…100万もの民が家を出て行く必要はなかったし、延べ80万以上の民が空位期間から前王の時代にかけて亡くなることもなかった。でも今は王がいる。節州と永湊に集めた民を戸籍地に戻しつつ、国外の民の帰還を促していかないと」
「うむ。それにしても、こうして民の移動の履歴を見ると…僅か1年半でよくここまでやったものだ。そも、民を結集させて守護と食糧供給を効率化する、という大胆ながら合理的な政策は、そう実行できることではない」
黄飛虎は、卓上の民の数を示す様々な玉石を見て感心したように言った。太公望と呼延灼も立ち上がり、同じく卓上の現況を見つめる。
国内人口は45万ほどまで減少し、国外の民を足しても平時の半分ほどにしかならない状況だ。
「……俺は、天帝と勝負するつもりだったんだ」
ぽつりと言った唯斗の言葉に、黄飛虎たちは目を丸くする。いくら麒麟が天帝の意思を反映して王を選ぶと言っても、勝負、とまで言うことはまずない。そもそも争いを忌避する性質だ。
「天帝が才を滅ぼすか。俺が才の民を国外にすべて避難させるか。どちらが先かの勝負だ」
「王を据えるおつもりはなかったんです?」
「それは天帝の意思だ。根負けして天帝が王を選ぶことも考えられたけど…俺は正直、俺の代では王は見つからないかもしれないと思ってた。前の王がたった5年で禅譲に追いやられたんだからな」
才を救うつもりがあるなら、なぜ立香は国を御しきれなかったのか。能力に問題はなかったし、それは張角や陳宮も同意していた。ただただ、人材不足だったのだという結論だ。
だからこそ、そうした人材を率いて登極できる者を最初から王に選んでいれば良かったのである。しかし天帝はそれをしなかった。
「某は前王のことをよく知らないが、それほど人望のない人物だったのか?」
すると、黄飛虎はそんなことを聞いてきた。一瞬なんと聞かれたのか分からず黙ってしまったが、言葉の意味を理解して、唯斗は背の高い黄飛虎の顔を見上げる。唯斗の目線の高さに鎖骨あたりが来るような長身なのだ。
「…あんたが、太公望たちと共に戻ってきてくれていれば、あんなことにはならなかった。人望じゃない、そもそもここには人がいなかった。誰かさんたちが見殺しにして、30年、この国を顧みなかったんだからな」
湧き上がる怒りに、思わず唯斗はそんなことを言ってしまった。
直後、自身の発した言葉によって、吐き気がこみ上げる。胸元が苦しくなって、ふら、と立っていながら姿勢を崩しかけた。
黄飛虎はすぐこちらを支えようとしたが、唯斗はぱしりとその手を弾き、卓に手をついて体を支えた。
「台輔、そのようなお言葉を口にされてはお体に触ります」
太公望は慌てて諫めてくるが、唯斗は内心でだけ「分かっている」と呟き、踵を返す。黄飛虎は唯斗に焦ったように呼び掛けた。
「っ、すまない采麒、そんな恨み言を言わせるつもりでは、」
「俺は采麒なんて名じゃ…っ、」
思わず言いかけた言葉は飲み込む。麒麟を氏字で呼べる者はその名を与えた王だけ、蘭陵王たちが使わなかった以上、名があること自体、黄飛虎は知らなかったはず。
理不尽なことだけは言いたくなくて、唯斗は必死に感情をぶつけることを我慢する。
唯斗は振り返らず、感情を押し殺して口を開く。
「…じゃあ、俺はこれで。必要な儀式は済ませた。明日からは、節州候としての仕事に専念する。太公望が冢宰に戻るなら、俺が国政に口を出す必要はない。朝議以外、広徳殿から出ないから」
「…っ、すまない…」
沈んだ声で謝罪した黄飛虎に、途端に罪悪感で胸がはちきれそうになる。どんなどうしようもない王でも慈しんでしまうのが麒麟だ。黄飛虎のような立派な武人であればなおさら、自分の狭量さに苦しくなってしまう。
ただ、立香を助けられなかった自分にできることなどないというのを抜きにしても、黄飛虎や太公望であれば、唯斗が隣にいる必要はないだろう。