華胥は隣に−12
いったん広徳殿に戻った唯斗だったが、考えてみれば今日はやることがなく、仕方ないため仁重殿に戻った。
麒麟の居所たる仁重殿は、護衛を含め誰も武器を携行することができない。そのため、あまり人の姿はなく、天官の一部が管理のためにやってくるくらいだ。
仁重殿の居室に入った唯斗は、すぐ出迎えた髪の長い男にきょとんとする。
「あれ、燕青?」
「おっ、おかえり台輔。随分早かったなァ」
非常に気楽な態度で出迎えたのは燕青、
内宰かつ
内小臣を兼任している。内宰は内宮の管理を行う責任者であり、内小臣は王と台輔の世話係だ。
立香の代で登用された立香の昔馴染みであり、人手不足のため兼任させていた。
立香が登用した人物ということもあり、燕青は立香にも唯斗にも気安く接することが許されている。もちろん、それはこうした個人的な場のみのことだが、立香が禅譲した今も、この王宮で唯一、こういう接し方をする者となっている。
「まぁ、な」
「…、なんかあったか?新しい主上と合わなかったとか?」
言い淀んだ唯斗に燕青はすぐ察する。飄々とした男でありながら非常にこちらの機微に聡いのだ。麒麟である唯斗が分かりやすい、ということもあるだろうが。
「…いや、主上はご立派な方だ。ただ……」
「うん?」
「…怒るなよ」
「場合によるな」
「…立香のこと、そんなに人望のない王だったのか、って何の気なしに聞いてきて。もとはと言えば、主上と太公望たちが戻ってこなかったから、人手不足すぎて官吏登用もままならなかったのに」
燕青はにっこりとする。驚くほど感情が感じ取れないが、恐らく、いや確実に、燕青は怒り心頭だろう。
それでも、麒麟がそうした感情に曝露されることが苦手であるため、完璧にそれを内側にしまいこんでいる。なかなかできる芸当ではない。
「……なァるほどな。それで、仁の生き物たる麒麟を怒らせて、台輔を送りもしなかったわけだな」
「や、でも、俺も大人げなかったというか…宗麟なんかはいつでもおっとりしてて、きっと前の采麟だってそうだったんだろうし、俺の気性が荒すぎるだけなんじゃないかって」
「ンなわけねぇだろ!もーうちの台輔はほんとさぁ〜」
燕青は仕方なさそうに笑うと、極めて俊敏な手際で茶を入れ始めた。瞬く間に、上質な桃の香りがつけられた茶をいれると、湯飲みをお茶請けの籠とともに机に置く。
瀟洒な小ぶりの机は、こうした茶を楽しむためのもので、居室で麒麟がくつろぐために設けられている。
「ほら、もうこれ飲んで寝ろ寝ろ。こういう時はふて寝に限るだろぉ」
「いやまだ夕方…っていうか、燕青こそ、正寝を整えるのに忙しいんじゃないのか」
唯斗が先ほど驚いたのは、今頃王の居室空間である正寝の建物群の清掃や片づけ、整理に追われているからではないかと思っていたからだ。
「台輔が王を見出したっていう一報を受けてすぐ、正寝から始めて燕寝も片づけたからな。ま、もともと片付いてたけど。最後にここってわけさね。にしても、2代続けて燕寝は西宮以外閉鎖だなァ」
王が住まう正寝と麒麟が住まう仁重殿・広徳殿が路寝を構成し、路寝の北側に燕寝が広がる。燕寝は北宮、東宮、西宮に分けられ、北宮は王妃や寵姫が暮らす場所、東宮は王の親兄弟などの尊属が暮らす場所である。
西宮は少し特殊な場所だ。霊鳥たちが暮らす梧桐宮、王の礼拝所である太廟、国家に新しい植物などを祈る路木がある福寿殿などがある。
梧桐宮に暮らしている鳥は、王の即位と崩御の二度鳴き声を発する白雉、他国の王との交信が可能な鳳と凰、必ず任意の対象に手紙を送れる鸞、官たちがやり取りをするための青鳥がいる。特に白雉は、王が死んだ際に同じく死ぬが、その足による押印は王不在期間中に御璽の代わりを果たすほど重要な鳥であり、梧桐宮の中の二声宮というところに住んでいる。王の即位と死の二度しか鳴かないことからこの名がつけられているそうだ。
黄飛虎は家族がおらず、燕寝は西宮以外、使われることがなさそうである。なお、王は即位してから結婚や子を成すことはできないため、即位時点での家族だけが燕寝に招かれる。
今後、寵姫ができれば北宮の小寝が解放されるくらいだろうが、黄飛虎がそういう女性を必要とするようには思えなかった。
立香も同様であったため、引き続き、燕寝の大部分が閉鎖される状態となる。
「…というか、仁重殿は別に改めて整理する必要ないだろ」
「いんや、うちの台輔はわりとそういうところ雑だからなぁ〜。これを機にってとこだ。いきなり主上に来られてもいいようにしないとだろ?」
「…それは…まぁ……」
「それに、最近は特に忙しくしてただろう。主上も登極し、これからは台輔が病む手前のところで執政する必要はないわけだし、これからは落ち着ける場所にしねえとなぁ」
椅子に座って桃のほのかな香りがする茶を飲むと、ささくれ立っていた心が安らぐ。途端に、黄飛虎には悪いことをしてしまった、と自己嫌悪になりそうだった。
だが、燕青が言う通り、これからは毎日のように正殿に詰める必要はない。節州はしばらく国政の観点から統治するべきでもあるため、唯斗の采配ではなく王の指示のもとに動かした方がいいだろう。恐らく、太公望もそう考えてくれるはず。
であれば、広徳殿での仕事も多くはない状態が続くことになる。
「…いや、まだいいや、そういうのは。立香のときに、俺が役に立てなかったから…ちゃんと今回は、朝廷が続くようにしないと。どうせ節州のことで俺の決裁も必要になるわけだしな」
「……そうかい?無理はしなくていいんだぞ」
「大丈夫だ。主上とは…うまくやれるか分からないけど、やるべきことはやりたい。一通り落ち着いたらさ、花を育ててみたいんだ。手ごろな育てやすいものから始めんの。立香と、いつかやろう、って言ってたから」
「…いいよぉ。良さそうなものを見繕っておくから、始めたいときに声かけてくれ」
国の混乱が落ち着いて、真に唯斗の仕事が日常的な業務だけになったら。
多くの時間を持て余すことになるため、その時間を使って花を育ててみたいと思っていた。いや、立香とそう話していたのだ。
その花に、立香と、助けられなかった民のことを想う心を託したかった。