華胥は隣に−15


朝廷から指示を出すだけだった唯斗には、当然、民の声など届かない。数字として捉えなければ本当に病んでしまうため、あえて具体的な話は唯斗の前では行われなかった。


「…ずっと不安だった。こんなことをして良いのかと。隣国に迷惑をかけ、民に住む場所から離れさせ、流浪の民とすることが正しいのか、ずっと分からなかった」


これで良かったのかという不安がいつも傍にあって、彼らが戻ってこられるのか分からない恐怖も常に頭にあった。
だがそれは杞憂だったらしい。


「国外に逃れた民は…安全に暮らしていたか?」

「あぁ」

「腹いっぱい食べられてた?子供は遊んでいたか?」

「もちろんだ」

「…みんな、笑えていたのか?」

「そうだとも。お主のおかげでな」


つい、声が震える。頬を滑る雫が冷えて袍に落ちる。初めて会った時のような激しいものではないが、目から落ちるものは次々と溢れていた。

黄飛虎はそっと唯斗を抱き寄せる。逞しい腕の中に抱き込まれ、厚い胸板に顔を軽く押し付けられる。麒麟は額に触れられることが苦手であるのを配慮してか、頭を撫でる手は後頭部だけに添えられている。


「…っ、ぁ、ッう、」

「さぞ心細かったことだろう。不安と、麒麟の本性に反した政治への苦しさを押し殺し、よくここまで耐えてくれた。王としてではなく、才の人間として礼を言おう」

「…っ、ふ、ぅっ、しゅ、じょう…っ、!」

「これからは某がいる。民を救い才を立て直す。そして何より、君を第一に守ろう。あらゆる不安や恐怖から遠ざけてみせる」


生国に下ってから初めて、唯斗は安堵を覚えた。この国を再建できるのかという不安に満ちていた先代の時代、そして民をなんとか救わなければと奮闘した空位期間。ずっとずっと、心は落ち着かないような不安定な状態だった。

今ようやく、唯斗はこうして黄飛虎に凭れることができた。すとんと心が収まるべき場所に収まったような、そんな感覚だ。


しばらく黄飛虎の腕の中で、これまで堪えていたものをすべて外に出すことができたところで、唯斗はようやく、ずっと言いたかったことを口にする。


「…主上、」

「うん?」

「…俺には、前王から頂戴した唯斗という名がある。許されるなら、名を呼んで欲しい」

「唯斗か。良い名だ。ではありがたく呼ばせてもらおう」


麒麟に名をつけることは、珍しくないが皆がそうするわけではない。そこまで拘りはないと自分ですら思っていたのに、いざこうして呼んでもらえると、より安心感を得るようだった。

嬉しくて思わず胸元にすり寄ると、黄飛虎は小さく笑う。


「愛らしいな、才の麒麟は」

「…は、ぁ!?いきなりなに、」


唐突に突拍子もないことを言われた唯斗は素っ頓狂な声を上げてしまったが、見上げた顔は優しく微笑んでおり、本気で言ったのだと分かる。


「王不在の朝廷を支えた強さと、気を許して甘えてくれる愛らしさがそれぞれ引き立つようでな」

「冷静に説明すんなよ…!」


いたたまれなくて黄飛虎の腕から抜け出そうとしてしまったが、黄飛虎はしっかりと唯斗を閉じ込めて離さない。
それどころか、抱き上げて歩き出した。急に抱えあげられて体を固くした隙をついて、黄飛虎はそのまま寝室へと向かう。

大きな天蓋付きの寝台まで来ると、絹の天幕を開けて中の寝台に二人揃って横になる。あっという間に、唯斗は黄飛虎の腕に頭を乗せるようにして、抱きしめられながら横になっていた。
さすがにこれは、王と麒麟として近すぎるのではと別の焦りも湧いてきたが、黄飛虎の低い声で「唯斗」と名前を呼ばれると、それだけで黙ってしまう。


「ここ数日は儀式続きで疲れたことだろう。明日からはすぐ政務となる。人事再編、官吏登用、国情把握に隣国との交渉、禁軍・節州師の動員に民の移動…やることは山積みだ。あらかた、太公望殿…新冢宰が整理して道筋をつけてくれているだろうが、唯斗の意見も聞きたい」

「そんな、俺の意見なんてもう…」

「誰よりも国のことを知っている立場だったのだろう。それを抜きにしても、その頭の回転の速さは個性だ。もちろん、某の登極前のように生々しい話には触れさせん。無理は決してさせぬとも」

「…分かった。しばらく、広徳殿での仕事も内殿に持ち込むことにする」

「助かる」


呆気ないものだ、と、唯斗は黄飛虎の腕の中で自分に少し呆れる。硬化していた態度は霧散してしまい、すでに世界で一番安心する場所かのように、この腕の中を思っている。生まれ育った蓬山よりも落ち着くようにすら思えた。

徐々に睡魔が首をもたげる。うとうととし始めた唯斗を見て、黄飛虎はくすりと微笑んで唯斗の頬を撫でた。


「眠るといい。内宰には某から話を通しておく」

「…ん、」


促されるまま、唯斗は目を閉じる。どこかから、桃の香りがした気がした。



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