brise de printemps 3−9
二泊した首都リマを出発して9時間、ペルー北部のラ・リベルタ県の大都市トルヒーヨに到着した。ペルー第三の都市である。
スペイン語の発音変化によって、トルヒージョと呼ばれることもある。
到着したのは夜だったため、一泊して翌日、午前中は観光にあてることにした。もはやこれが逃亡の旅とは思えない旅程だ。
遺跡に向かって車を走らせていると、シャルルは鼻歌でも歌いそうなテンションになる。
「楽しみだな〜!」
「そうだな」
今回、午前中に観光することを提案したのは唯斗だったが、シャルルもウキウキである。車を走らせながら楽しそうにしているシャルルは、初めての古代文明遺跡ということで期待に胸を高鳴らせている様子だ。
もちろん、唯斗も楽しみにしている。というのも、トルヒーヨ、正確にはウアンチャコという隣の町ではあるが、ここには南米最大の遺跡があるためだ。
その名をチャンチャン遺跡、太陽を意味する名前であり、ペルー沿岸からエクアドル付近にかけてアンデス山脈西岸に広がっていたチムー王国という古代文明の都だった場所だ。
「南米最大の遺跡ってすげーよな!」
「といっても、入れるのはごくわずかだけどな。20平方キロメートルにも及ぶから、ここは『遺跡』じゃなくて『遺跡地帯』って呼ばれてる」
あまりの広大さに、正式にはチャンチャン遺跡地帯と呼ばれている。東京ドーム427個分に相当するが、ここまで来ると逆に東京ドームでは分からない。
チャンチャン遺跡はチムー王国の都だった場所だが、チムー王国はプレインカ時代の南米古代文明において、最後にして最大の勢力を誇った。インカ帝国にとって唯一の敵国であり、インカ帝国に滅ぼされた約50年後、インカもろともスペインに征服される。
「南米の文明は文字をもたなかった。その文化も鉄器時代に進むことはなく、新石器時代のまま15世紀まで数千年間続いたんだ。その代わり、独特の土器とレンガ、そして極めて精巧な積石技術を持っていた」
「積石技術?石を積むってことか?」
「そう。髭剃りの刃すら通らないと言われた精緻な積み上げ技術によって、インカ道という幹線道路が整備された。リマからトルヒーヨまで走ってきた道もそうだな。山岳部の道と沿岸の道、南北に2つの巨大な幹線道路が並走していた」
文字がなかったうえに筆記痕跡すら残っていないにも関わらず、チムー王国やその技術を受け継いだインカ帝国は精巧な建築技術を持っていた。寸分たがわず設計された建物の配置、黄道など天文計算、少ない水を効率的に灌漑する水路。
本来はあまり文明が栄えるには適した場所ではないアンデスは、事実、鉄器時代は到来せず車輪もなかったが、それでも1600万人もの人口を擁する場所だった。
「標高2000メートル以上の山岳地帯、冷涼で乾燥した沿岸部。どちらも本来は文明には厳しいはずだった。それなのに1600万もの人口を抱えていたのは、その精巧な技術によって効率的な農業を実現し、人を乗せる家畜も車輪もなかった徒歩文明でも交易を可能にする街道を整備し、各民族の自治に任せて内戦を避けていたからだ。チャンチャン遺跡は、そうした南米民族の象徴でもある」
「そんなすげー文明だったんだな…」
「ま、スペインが全部征服して破壊して上書きしたんだけどな。これまで見てきた世界遺産は、すべてスペイン植民地としての面影を残すという意味での認定だった。古代文明としての世界遺産は、今回初めてだな」
「もうちょい俺がボコしといた方が良かったかなぁ〜…」
「お前がイベリア半島で戦った相手はイスラームであって、この地を滅ぼしたのはフランクと同じキリスト教のスペインだろ」
「ちょっとヨーロッパ嫌いになりそう…」
運転席で少し凹んだようにするシャルルに、唯斗も苦笑する。もうすぐ先に遺跡地帯の砂地が見えていた。
「正しいことだけをして歴史が生まれるわけじゃないからな。何事もトライアンドエラーだろ」
「…唯斗みたいに詳しい人が言ってくれると、歴史の当事者としては救われるような気がしてくるな。フィクションであってもさ」
「なんであれ、一緒に世界を救うのを手伝ってくれて、こうして一緒に逃げてくれてるのはシャルルだ。俺にはそれだけで十分だよ」
そう返すと、シャルルは前の車が止まった一瞬の隙に、唯斗の頬にキスをひとつ落とした。
「やっぱ唯斗の隣が一番好きだぜ」
「…そーですか……」
「そーです!」
いちいち心臓に悪い格好良さの男に、リマでいろいろと関係を深めたものの、やはり勝てないな、と顔に集中する熱を誤魔化すように思った。