サヘルの夜明け−3
ガソリンのポリタンクは、トランクに入りきらず後部座席や助手席の床にも置いていたため、いったん大使館に戻りガソリンを降ろす。
警備員が高い塀の扉を開いて車を招き入れると、ウマルと唯斗がポリタンクを運び出したのを見て、警備員も手伝ってくれる。
「手伝います」
「悪い、助かる」
唯斗がポリタンク1つで精一杯なのに対して、屈強な黒人男性の中でもさらに屈強な男・ムーサは一人で2つ運んでくれる。
ムーサ・シー(Moussa Sy)は勤続4年目の警備員であり、ラヴァルヴィルの北側にあるスラムの出だという。恵まれた体格を生かして軍属となり、その後民間の警備会社に転職、4年前から日本大使館の警備員となっている。
もう一人、ムーサと同じタイミングで警備員となったウスマンという男性がおり、今は二人で交代制を取っていた。
一緒にタンクを地下室まで運びながら、唯斗はムーサに声をかける。
「ムーサ、知っての通り治安が悪化してる。警備を4人体制にしようと思うんだけど、ムーサはどう思う?」
「適切かと。敷地が広いですから、正門と裏門で1名ずつが理想です」
「分かった」
寡黙なムーサは口数が多くはなく、見た目も相まって圧のある外見だが、性格は温厚であり極めて真面目だ。ムーサが言うなら、やはり警備を増やした方がいいだろう。
ポリタンクを運び終わり、唯斗はムーサにチップとして金を渡すが、ムーサは渋る。
「いえ、それほどのことでは」
「今のうちに買いだめしておいた方がいい。デルタ州も危ない状況だ、デルタからの食糧供給が滞れば市内のスーパーは空になる。子供が4人もいるんだ、今日にでも買い物に行っとけ」
「…分かりました、ありがとうございます」
チップなどもらって当然というスタンスが当たり前の国でこれだ、本当に真面目でまるで日本人のようだ。そんなムーサは31歳と唯斗と3つしか違わないのに子供が4人もいる。
ムーサもムスリムのプラ人であり、やはりムスリムらしく子供が多い。この多産思考こそが、この国の人口バランスを崩し状況を悪化させているのである。
ムーサが配置に戻ると、ウマルの運転でそのまま今度は備蓄食料の買い出しに出向く。
近くの大型ショッピングモールは、平日の昼間にしては異常に混んでいる。やはり、情勢不安の高まりで備蓄に走る人々が増え始めているのだろう。
とはいっても、まだ秩序がある。この国最大の都市であり、つい10年前まで首都であったこのラヴァルヴィルからは、戦線は遠かった。
ピナルエサヘル共和国最大の都市ラヴァルヴィル(Lavalville)は、植民地化直後にこの地を治めたフランス人の初代総督ポール・ラヴァルに由来する都市であり、人口は280万人に達する。
ニジェール川中流域、巨大な湿地帯が広がるニジェール川内陸デルタの北の端にあり、デルタが満水のときでも洪水にならない台地の上に広がっている。国内最大の人口400万人を擁する中央州の州都であるのと同時に、周辺の州にもまたがる広域都市圏の人口は450万人にもなる西アフリカ屈指の大都市だ。
ニジェール川内陸デルタとは、ニジェール川が中流域の内陸盆地に広がる低地帯に拡散し、巨大な湿地帯を形成する土地を指す。上流の雨季に大量の水が川に流れ込むと、7月から翌年1月にかけて増水期を迎え、広大な盆地が薄く水没する。
この水盆はニジェール川の水量の半分を蒸発させ、ここから先の水量は急速に細くなるが、それでも遠くナイジェリアまで弧を描いて到達する巨大河川である。
内陸デルタは、豊かな水をたたえる増水期には漁業が盛んになり、渇水期には増水期にもたらされた豊かな土によって農業が行われる。そのため、内陸国家でありながら異例の漁獲高を誇る国であり、デルタ地域の漁業と農業はこの国の生命線でもあった。
そんな肥沃なデルタ地方から北に川を下った場所にあるラヴァルヴィルは、ちょうど南西から流れてくるニジェール川が東へと方向を変える場所に位置し、人とモノが集う物流拠点であり、首都が移転してからもそれは変わっていない。
2003年の国号変更とともに、キリスト教プラ人の政権はさらなる反乱を警戒して首都を移転した。ラヴァルヴィルから東に100キロほど離れた下流のニジェール川沿いにあるウーロ・ジャム(Wuro Jam)という都市で、プラ語で「平和の都市」を意味する。
ウーロ・ジャムに政府機能が完全に移転を完了したのは2015年ごろのことであるが、それ以降も、各国の大使館のほとんどが旧首都ラヴァルヴィルに残っている。移転したのはガーナやコートジボワールなど周辺国と、宗主国のフランスのみであり、これらの国はラヴァルヴィルに領事館を設けている。
かくいう日本大使館も旧首都に残った国であり、領事館を設けるほど在留邦人が多い国でもないことから、当面はこのままとなる予定である。
ただそれも、いつまで大使館が開館しているかすら怪しくなってきているのだが。
「ウマル、そろそろ礼拝だろ。先にモールの礼拝室に行ってきたらどうだ」
「いえ、それには及びません。大使館に戻ったらやりますので」
「そうか」
ウマルの返答に唯斗が頷いた直後、モールの駐車場にアザーンの爆音が響き渡る。イスラームの礼拝は1日5回行われるが、それを知らせるモスクの爆音放送だ。イスラームの国ではよくある光景だ。
ひと昔前まで、ラヴァルヴィルでこうしたアザーンが響き渡ることはあまりなかったという。北部のムスリムが多い地域では昔からアザーンがあったそうだが、今いる市内中心部はキリスト教徒が大半であり、モスクのアザーンも控えめだった。
しかし、ムスリムの方が人口の増加スピードが圧倒的に早いため、伝統的にキリスト教徒が多数派であったラヴァルヴィルでもムスリムの数が非常に多くなり、こうしてどこでもアザーンが聞こえるようになったという。
政権が中央東州という東に離れた州の農村にウーロ・ジャムという新都市を建設してまで首都を移転したのも、こうした人口バランスの急速な変動が背景にある。
モールに入り、地上階の巨大なスーパーマーケットに入る。スーパーはそれ自体が商品で色とりどりになるものだが、この国の人々は服装もカラフルだ。
男性は普通のTシャツにジーンズが最も多いスタイルであるものの、シャツの色が派手である。女性の大半、および男性の一定数は、貫頭衣式の伝統的な服装をしており、これが実にカラフルで美しい。ムスリムの女性は髪を隠すが、中東のヒジャーブではなく、これもカラフルな布を頭に巻き付ける。
そんなカラフルな人々の中、白を基調とした貫頭衣のウマルと夏用スーツの唯斗は浮いている。もちろん、唯斗はジャケットを着ずにシャツ姿ではある。
「12人が1週間分となると270食にもなる。水や電気が使えないことを見越して、缶詰やクッキーの類をメインに買いだめよう。ウマルは水を頼む。5万フラン以内なら子供用のお菓子買ってきていいぞ」
「分かりました。ありがとうございます」
3人の子供がいるウマルは嬉しそうに笑い、カートをもって水のコーナーに移動する。すでに人だかりができているが、まだペットボトルは大量に陳列されていた。あれも明日には売り切れるだろう。
唯斗は缶詰コーナーの棚で、次々と食べやすそうな缶詰をカートに入れていく。1週間分といっても非常食によるギリギリの水準を意味する。この辺りは米が主食であるが、芋類も盛んに食べられる。
水が貴重なものになるはずなので、米を炊くときはココナッツミルクになる可能性が高い。開封しなければココナッツミルクは非常に長持ちするため、水で米を炊けないときは頼りになるだろう。味は別として、であるが。
唯斗はココナッツミルクも大量にカートに入れていき、さらにフフ用の粉末製品も入れる。フフとは、キャッサバやタロイモなどの芋類を粉末にしてお湯と混ぜて形成する、芋でできた餅のようなものだ。伝統的には杵で形成するため、まさに餅つきのような作り方をする。西アフリカでは一般的な主食の一つで、スープなどと一緒に食べる。こちらも水が足りなくなればココナッツミルクを温めて混ぜることになるはずで、そのときのカロリーは考えたくもない。
恐らくスープはめったに食べられなくなるだろうが、代わりにこの国ではよく食べられるマフェというピーナッツバターソースも買っておく。
そのまま食べると日本でも売られているピーナッツバターに似ているペースト状だが、普通は煮込んでスープのようにして食べるか、より粘性を薄めたディップとして食べる。これ自体は味が薄いため、通常はトマトソースやトウガラシで味をつける。
缶詰を大量に買ったのは、フフやマフェのような味の薄い地元料理の味を調えるためだ。
一応、大使館には日本から取り寄せた非常食もあるが、長期化すれば地元料理の方が保存しやすく手に入りやすい。
すっかりこの国の文化にも詳しくなったものだ、と思いつつ、これに頼る日々を思うと気が重かった。決して日本人にとって手放しにおいしいと言えるものではない。