サヘルの夜明け−5


「本省からは、レベル3以上の地域からの退避はもちろん、レベル2地域であっても可能な限り帰国か第三国への避難を推奨しています」


倉石は外務省本省の通達を共有してくれたが、唯斗は念のため確認する。


「まだ本省は推奨止まりなんですね?」

「ええ。現在、国内の邦人は93名。ほとんどが自動車メーカーの駐在員と家族です。明日には30名ほどが帰国すると聞いています」

「デルタ州でのISの動きが活発化していると噂されています。今からでも全員退避させるべきでは…?」


現在、西部3州の東側に隣接し内陸デルタを擁するデルタ州では、南部を中心にイスラム国、ISの活動が活発化していた。ISは2010年代にシリアやイラクで国家を形成し内戦を引き起こした巨大な武装組織であり、中東で壊滅したあと、アフリカに活動の場を移していた。
2020年ごろより、ISやアルカイダ系の武装勢力が国内に入ってきていると指摘されていたが、コロナ禍もあって表には出てこなかった。
しかし2022年、南の隣国オートボルタ共和国でクーデターが発生し反仏軍事政権ができたことで、国内での現政権への不満が急速に高まっていた。そのころからISによるテロが発生し始め、2023年のマンデ共和国クーデターで加速。
さらに、2023年10月にハマスがイスラエルを攻撃しガザ地区での激しい戦争が始まると、ピナルエサヘル政府はイスラエルの自衛権を尊重するべき、という声明を出したことから、国内のムスリムからの反発が激化。2023年の年末にはISのクリスマスを狙った連続教会爆破事件などが発生し、こうした情勢の悪化によって、少しずつ邦人の帰国がすでに始まっている状況だった。

そして年が明けた2024年1月4日、2日前のことだが、DASAKが独立宣言を出すに至っている。

そんな状況だ、ただちにすべての日本人を退避させるべきでは、という唯斗の言葉に、橋本は首を横に振る。


「今の段階では、現政権との関係もあるし、自衛隊を出せる状況ではないよ。民間機での避難を呼びかけるのが精一杯だし、今はどのフライトも満席状態だ」

「ただ、雨宮君の言う通り、デルタ州や南方高原州でも治安が急に悪化しており、特にデルタ州南部ではISの組織化が顕著です。一方、デルタ州の北部ではプラ人による別の武装組織もできている。このままいけば、この国は急速にバラバラに崩壊し、スーダンのようなことになりかねません」


昨年2023年に発生したスーダン内戦では、首都ハルツームで武装勢力が蜂起したこともあって、多くの外国人が避難する前に急に治安が悪化した。空港が初期に破壊されたため、空路での脱出もできず、国連や大使館、NGOなど多くの外国人が1週間にわたりハルツームに閉じ込められ、食料や水の不足で危機的な状況に陥った。
2021年のアフガニスタン退避で自衛隊を適切に運用できなかった日本政府は、翌2022年のうちに自衛隊法を改正しており、紛争地でも邦人保護のために自衛隊を派遣できるようになっていた。
そうなって初めての退避オペレーションがスーダン退避であったが、それでも、ハルツームにいた40名あまりの邦人はサウジアラビアやUAEの護衛のもとにハルツームからポートスーダンまで数十時間かけて砂漠を移動し、ポートスーダンで自衛隊機に乗って、ジブチの自衛隊海外基地に避難したのである。

橋本はデスクに広げた地図を示し、ラヴァルヴィルから南西のデルタ州をなぞる。


「デルタ州は、確かにラヴァルヴィルがある中央州から南西にモイヤンニジェール州の一部を挟んですぐだ。距離的にはかなり近い。ただ、増水期がもう終わりとはいえまだデルタは湿地帯。大規模な軍勢がラヴァルヴィルに来るには、デルタを大きく迂回して真南のハイレ方面から来るほかない」


ラヴァルヴィルの南、デルタの増水期でも水没しない台地に位置する交通の要衝であるハイレは、ピナルエサヘルのオルレアンと呼ばれるほど重要な都市だ。規模こそ大きくはない都市だが、すでに相当数の軍が配備されていると聞く。
唯斗は、南部の高原地帯に広がる南方高原州西部とラジュバドゥグー州東部、デルタ州南部が接する境界線を指さした。


「南方高原州でモーレ人の武装組織がDASAKに合流する場合、ラジュバドゥグー州と南方高原州の境あたりにいるキリスト教徒たちの村や町が襲撃され、さらにその北側にいるデルタ州南部の土着宗教の少数民族が襲撃されますね。そしてこの一帯が制圧されると、一気に各勢力が合流してハイレに至る街道を北上できるようになる」

「その通り。すでにISがデルタ州南部で少数民族を襲撃しているけれど、ムスリムモーレ人の武装組織CMMとDASAK、ISが合流するなんてことになれば、事態は不可逆的に悪化する。まぁ、僕の見立てでは明日明後日にはそういう方向で進み始めると思うけどね」

「先ほどムーサと話して、やはり警備を4人に増やした方がいいだろうという結論になりました。昼・夜ともに2名ずつの交代制を維持する形です」

「うん、それがいいね。手配よろしく。あと、邦人に対する避難の推奨の連絡を」

「はい、用意します」


唯斗の主担当は領事業務と大使館の施設管理。まずは在留邦人93名のうち、大使館関係者以外の87名に対して状況の共有と可能な限りの早期の避難を呼びかける。
続いて警備員の増強を警備会社に手配し、大使館の閉鎖を見越した事前準備も必要だろう。

このような少数による大使館では、一人でなんでもできるようになる必要があるため、意外と若手が赴任することも多い。それは理解しているが、いくらなんでも緊急退避まで経験させるというのは、やはり荷が重いと感じてしまう。



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