サヘルの夜明け−22
なんだか久しぶりに笑ったような気がする夕食を終え、片付けの手伝いをやんわり断られたため、唯斗とリチャードは公邸を後にした。
夜になると途端に気温は下がり15度ほどと涼しくなっている。静かな市内には昼間の騒然とした空気は残っていない。
そこに、公邸の玄関が開いて聡太が出てきた。こちらに駆け寄ってきたため、唯斗は振り返って視線を合わせるためにしゃがむ。
「どうした?」
「雨宮さん…パパ、本当に死んじゃったの…?」
「っ、」
その言葉に、唯斗は息を飲む。聡太は遺体を見ていない。もちろん葬式もしていない以上、死が言葉で母から伝えられたにすぎないのだ。まだ実感がわかないのだろう。
「ママ、ずっと泣いてる…パパが本当に死んじゃったから…?」
実感がなくても、美紀の様子に理解はしているのか、聡太の目からはぽろぽろと涙が零れ落ちる。異国の地で父を失い、どこかいつもと様子が違う街の様子に不安を抱えながらも、ずっとそれを我慢してきたはずだ。
まともな両親の愛情など知らない唯斗だが、それでも、目の前で子供が泣いている現実を残酷だと思った。
唯斗は聡太の頭を撫でる。
「…うん、残念だけど、聡太君のお父さん、死んじゃったんだ。明日、お父さんのご遺体だけ先に日本に帰るよ。すぐ自衛隊が助けに来るから、それまでの辛抱だ」
すでに父の死を理解している聡太に、慰めの言葉をかけられるほど唯斗には人付き合いの経験がない。それでも、「立派だった」とか「お空から見てるよ」などという形ばかりの慰めを言う気にもならなかった。
「ここにいる間は、俺やリチャードが君を守る。聡太君が日本に帰ってお父さんの顔を見れるようになるまで、絶対守るよ。自衛隊の人たちも、ほかの外交官の人たちも、みんなが君を守るために動いてる。だから必ず日本に帰れる。それだけは約束する」
「うん…!」
目元を拭って、聡太は頷いた。さすが倉石の息子だ、名前の通り聡くて強い子だ。
聡太はまた駆け足で公邸に戻っていき、玄関で一度こちらに手を振ってから中に入っていった。
再び沈黙が落ち、唯斗が立ち上がると、日本語の会話を黙って聞いていたリチャードは一言「強い子だな」と述べた。なんとなく会話の流れは理解していたのだろう。
「あぁ。父親に似て、相手のことを考えられる優しい子だ」
「あの子になんて言ったんだ?元気になったというより、自分で踏ん張れるようになった、という変わりように見えたが」
そんなリチャードの質問に、唯斗は内心で驚いた。非常によく機微を捉えている。確かに、聡太は励まされて元気になったというよりは、なんとか受け止めようと決めたように見えた。そこまでは唯斗も気づかなかったというか、言われて初めて気づいた。
とりあえず大使館に歩き出しながら答える。
「ただ、守るよって言っただけだ。本当に父親が死んだのか、と聞かれたからそうだと答えた。そのうえで、俺やリチャードが、そして自衛隊や国が、必ず君を守る、必ず帰国させるって、それだけ。俺にはそれ以外言えない、気の利いたこと言えるほど、俺はできた人間じゃない。ただ単に、なんの慰めにもならない綺麗ごとを言いたくなかったんだ」
「それは唯斗が誠実なだけじゃないか?あの子を子供と侮らず、対等に見ているからそういう発想になるんだろう。それは下手な慰めより励みになるし、だからあの子は前を向いた」
「どうかな。あの二人の死を綺麗ごとで矮小化したくないっていう、俺のエゴかも」
大使館に入り、玄関を施錠する。あまり明かりが外に見えないよう、地上階の照明は領事業務室の一角だけに絞ってあるため、エントランスは薄暗かった。
「…唯斗には、君の悲しみに寄り添ってくれる誰かはいるのか?彼女たちは互いに慰めあえる、女性同士だから共感能力も高い。聡太には言わずもがな母親がいる。では君は?」
するとリチャードがそんなことを尋ねる。唯斗は虚を突かれて思わずその端正な顔を見上げてしまう。離れた光源からの明かりであっても色あせない精悍な顔は、じっと感情の読めない表情でこちらを見下ろしていた。
そこに心配や同情があればすぐに心配するなと言えた。なんでもないと自分に言い聞かせる延長で答えられた。だが、それを許してくれるような顔ではなかった。
つい怖くなって視線を外す。
「…そんなの、いない。それにいらない。俺はずっと一人だった、これくらいどうってことない」
「ずっと一人だった、というのは?」
「なんでそんな、」
ただの傭兵とクライアントでしかない関係だ。そんなプライベートに立ち入る必要はないはずだ。
どういうつもりかと再び見上げたとき、そこには、優しいが、あまりに優しすぎる笑みがあった。領事業務室からの遠い明かりによって影が深くなっており、その瞳は鈍く光って見える。慈愛、というにはほの暗すぎるように思えた。
その視線の鋭さに、唯斗は抵抗できずに口を開く。
「…母親は俺を産んだときに死んだ。父親はネグレクト。俺がフランス語を喋れるのは、預けられた父の実家がフランスにあったから。ただそれだけの話だ。だから俺には聡太や加奈子さんたちに共感とかできねぇんだ、橋本さんや倉石さんみたいに、この人なら大丈夫、なんて思わせられるような人間にはなれない…」
「そうか?先ほど、公邸の玄関で橋本夫人と話していたとき、君は夫人を元気にさせようと言葉を選んでいるように見えた。夕食中も意図的に明るい話題の進め方をしていたし、聡太にかけた言葉は対等で誠実だった」
どうやら夕食を作る前に玄関で話していたところを見ていたらしい。言葉は分からなくても、加奈子の涙の跡と笑顔に、二人の会話を予測していたようだ。
ひょうきんなようでいて、実際にそういうところはあるが、この男は恐ろしいほどに人をよく見ている。
「何より、たった一人の外交官として日本人を保護しようという覚悟は本物だ。その覚悟が俺を救ってみせたんだからな。君は強い。そして誠実で優しい。人を守れる強さも、人に怯える弱さも、すべてひっくるめて君の魅力だ」