サヘルの夜明け−23


「魅力って…別に傭兵だからってそこまでする必要ねぇだろ…」

「ないな!当然だ、そんなことは傭兵の仕事じゃない。だからこれは私情だ。俺がこうしたいからこうする、それだけのことだ!」


そう言って、リチャードはおもむろに唯斗を抱きしめた。駐車場のときと違い、今度は正面からだ。鼻先がリチャードの首筋にあたりそうになり、慌てて顔をずらすと今度は肩に顎がフィットしてしまう。


「なっ、お前、なにして、」

「一目ぼれ、というほどではないんだが、俺を助けてくれたあの瞬間、そして実は銃ではなく蛇口だったと言いながら震えていた強さと弱さ、そして国民を守ろうという覚悟に、俺は正直とても惹かれている。だからこれは打算だ。君が打算で俺を助けたように、俺も打算で君を助ける。心まで含めてな」


言葉が一瞬頭を通り過ぎて、理解するのにラグが生じる。それによって硬直したのをいいことに、リチャードはよりしっかりと唯斗を抱きしめた。

言葉を文字通り解釈すれば口説かれている。だが会ってすぐの、それも同性にそんな惹かれるなどと言うことがあるのか。唯斗は頭をフル回転させて別の意図を探ったが、リチャードの言葉で思考が止まる。


「つらかっただろう、尊敬していた二人を突然失って、一人で大使館を任されることになって。死を乗り越えるための悲しさよりも、自分しかいないという事実だけを見るしかなかったんだろう。大丈夫、君は一人じゃない。俺がそばで守る。だから今は、君も二人の死を悼んでいい」


まさにリチャードが言う通り、見ないようにしていた唯斗の心のすべてだった。
突然の死を受け止めきれなくて、それよりもやらなければならない責務が多すぎて、その重圧が重すぎて。この国に日本国外交官は自分しかいない、という事実だけを見て、邦人保護にまい進するしかなかった。


「……尊敬、してたんだ。橋本大使も、倉石さんも」

「あぁ」

「…、橋本さんたちは、日本に俺と同じくらいの息子がいるからって、ここに赴任したときから、俺のこと、よくしてくれて……」

「うん」

「っ、たくさんのことを教えてくれた、俺のこと気遣ってくれた、死んでもなお、俺のために指示を残してくれてた…っ、」


リチャードのジャケットに涙が伝う。革ジャンは水を弾き、リチャードの厚い肩を伝っていく。


「こんなところで、こんな死に方していい人たちじゃなかった、日本にいる息子さんも、聡太も、これから大事な時間がたくさんあったはずなのにっ、どうせなら、家族がいなくて経験も浅い俺が死んだ方がマシだったのに、そんなこと考えても意味ねぇのに、でも、俺は…ッ!」


後頭部を撫でられ、次々と涙がこぼれる。蓋をしていて自分でも分かっていなかった言葉が一緒になって出てきて、そのたびにリチャードは相槌を打って否定することなく受け入れてくれた。


「なんで、なんでこんな…っ!ふ、ぅっ、人の命を、なんだと思って…!戦争も、テロも、人の尊厳よりも、大事なことかよぉ…ッ!」

「こんなときでも、誰かのことを考えて泣くんだな。やっぱり唯斗は優しい。大事な大使と先輩の死と、この国で起きてる無数の顔も名前も知らない人たちの死を、同列に考えているんだな」


リチャードにすがるようにして嗚咽を漏らすと、リチャードは唯斗の頭を撫でてそう耳元で囁いた。エアコンの空調と、たまに外から鳴る夜間外出禁止令を無視したバイクの音しか聞こえない静かな部屋ではよく響く。



しばらくそうしてから顔を上げると、ようやくわずかに体が離される。それでも、リチャードの腕は唯斗の腰を抱いていた。

目元を拭うと、リチャードの指がそっと唯斗の目元をなぞる。


「ちょっと腫れちゃったな。泣き顔もきれいだ」


そんな歯の浮くようなセリフが嫌味にならない男前に、ようやく唯斗は小さく笑う。


「打算つか、下心だろ」

「そうとも言うな!すっきりできたか?」

「…ん。年甲斐もなく恥ずかしいけど」

「そういえば歳はいくつなんだ?」

「28」


唯斗が答えると、リチャードは目を丸くする。もっと若いと思ってた、と顔にありありと出ていた。


「…なんだよ」

「い、いや!俺の1個下なんだな、年齢がほとんど変わらないのに落ち着いていて、外交官までやっているなんて改めてすごいなぁ、と」

「…ま、そういうことにしておく。みっともないとこ見せたし不問とする」

「みっともなくはないさ。俺なんて全部顔に出てるって部下にからかわれる」


そうだろうな、と言おうとして先ほどの表情が思い出される。
あのどろりとした表情は、感情が表に出ていたのだとすれば、まるで底なし沼のようだった。
一瞬不気味に見えたあの表情すらも、今は思い出せば安心してしまう。ちょっと肩を借りたくらいでこれだ、自分も大概だろうと呆れてしまった。


「まぁいい。明日も早い、もう部屋に戻るぞ。いつ水道が止まるか分からないんだ、シャワーできるときにしておいた方がいい」

「了解!」


びしっと敬礼してリチャードは、懐いたレトリバーのように見えなくもない。だが、傭兵として鋭く人間を見つめ、そのうえで出会ったばかりの唯斗にひどく重い感情を滲ませた様子は、やはり普通の感性の人間ではないのだと、改めて実感させられた。



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