サヘルの夜明け−28
残された唯斗に、リチャードは不思議そうに尋ねた。
「日本は遠いだろう、文化だって全然違う。彼女はよく即決できたな」
「この旅行会社は日本の大手旅行会社とも提携している。昔から、現地の日系企業や日本からの団体客の相手をしてきたから、ほかの多くの人々よりも日本のことをよく知ってるんだ。だから覚悟を決めやすかったんだと思う。それに、反キリスト教徒勢力が迫っていることへの恐怖もあったはずだ」
「そうか、すぐに彼女がキリスト教徒だと理解してたのか」
「しかもモーレ人だ。CMMに見つかれば即殺されるだろうな。いや、単に殺されるだけならマシか。若い女性なら殺されるだけじゃ済まなかったかもしれない」
「あぁ…そうだな。戦争における女性の被害者はいつもそうだ。日本人を助けてもらうだけじゃなく、ひどい目に遭う現地人を助けることにもなるのか」
「そういう交渉の進め方は想定してたし、臨時大使からも許可をもらってたんだ。弱みに付け込む、って見方もできるけど…極東のまったく文化の異なる国であっても、命の危険がない、女性であるだけで襲われる理由にならないってのは、何よりも大切なことだ」
そこに、アデルが男性を連れて戻ってきた。旦那と言っていた運転手だろう。
「エドモン・シディベ(Edmond Sidibé)です、ここの運転手をしています。日本に連れて行ってくれるってのは本当ですかい?」
エドモンは年上に見えるが恐らく唯斗とはほぼ同じくらいの年齢だろう。名前からして、エドモンはプラ人だ。プラ人とモーレ人の結婚は、都市部では珍しいことではないが地方では稀だ。
「外交官の雨宮唯斗です。私が娘さんと3人、安全な日本へお連れします」
「いやっほう!ほかの国の依頼を断ってよかったぜ!日本には行ってみたかったんだ!それに、日本人のことは好きですよ。韓国人みたいにバスの中で臭いもの食べないし、中国人みたいに俺たちを馬鹿にしたり車内を汚したりしない。フランス人みたいに偉そうじゃないし、アメリカ人みたいに我儘じゃないし、イスラームへの嫌悪もない、最高だ!」
観光バス運転手あるあるだろう。このような評価は世界中でよく聞く。特に、車内をきれいに使う、匂いのする自国のものを食べない、礼儀正しいといったあたりは鉄板である。
また、話から二人は民族も宗教も違うのだと分かった。エドモンはムスリムのプラ人、アデルはキリスト教徒のモーレ人だ。名字を揃えていないのもそのためだろう。
ちなみに、ムスリムは異教徒と結婚する際にルールがある。まず男性がムスリムで女性が異教徒の場合、女性がユダヤ・キリスト教徒であれば改宗の必要はない。啓典の民といって、同じ神を信仰するためだ。しかし仏教などほかの宗教の場合には改宗が必要となる。
そして男性が異教徒で女性がムスリムである場合、いかなる宗教であっても男性は改宗が必須だ。ムスリム女性はムスリム男性以外と結婚してはならないのである。
民族も宗教も違うのに結婚し名字も揃えないとは、非常に世俗的な二人だ。先進的といってもいい。だからこそ、宗教的に保守的な勢力が跋扈して国が崩壊しようとしている状況に、ほかの市民よりもシビアになっている。危機感が強かったはずだ。
その安堵からかテンションの上がったエドモンに握手させられ苦笑しつつ、唯斗は実務的なことをアデルとも話す。
とりあえず今日は1台を大使館に持って帰らせてもらう。この状況だ、数日後になってもちゃんとバスが確保できるか分からないが、さすがに2台は敷地内に保管できない。
ウマルに運転してもらい、今日は1台を持って帰る。
そして明日、唯斗は本省と連絡を取って退避の日時を決定する運びになっている。その後、エドモンに連絡して、アデルと娘を連れて大使館にバスとともに移動してもらう日時を決定し伝える。この段になると、エドモンが家の長として唯斗とやり取りをすることになるようだ。ここからは、アデルは営業担当ではなく守るべき妻として考える、ということだろう。
これで今日の目的はすべて達成できた。退避に向けて一歩一歩前進できている。