サヘルの夜明け−29
ウマルは中型バスを、唯斗は公用車を運転し、リチャードは唯斗の隣の助手席で警戒に当たる体制で旅行会社を後にして、大使館に戻ってきたときには14時を過ぎていた。
帰り道でも、1区や北西の5区の方から銃声が頻繁に聞こえてきて、軍の車両がひっきりなしに道路を渡っているのが見えた。市内中心部は混乱状態であり、唯斗の予想通り、急速に市内の治安は悪化していた。
ラジオからは、ラヴァルヴィル南方、ハイレよりも南の街道で戦闘が起きていることが伝えられ、DASAK・CMM・ISNの連合軍が北上を続けている様子だった。
すでに市内はISNの戦闘員による工作が進んでいるが、一方でJMAS系の戦闘員もいるようで、この最大都市をどちらが制圧するか、勢力争いが本格化しようとしていた。
大使館に戻り、リチャードにも礼を言って別れてから領事業務室のデスクに座ると、疲れがどっと押し寄せる。
「はぁ〜…、疲れた…」
「お疲れ様です。バス、確保できたんですね」
「あぁ。これで退避の足は恐らく問題ない」
インナは気を利かせて水を入れてくれた。礼を言って一気に飲み干すと、デスクの上に置かれたフフとピーナッツバターに気づく。丁寧に皿に盛られラップがかけられていた。
「これは…」
「大使夫人が、お昼にと。帰ってきたら食べて欲しいとのことでした」
「そうか…ありがとう」
早速ラップを外して、丸い餅のようなフフをちぎってピーナッツバターにつけて口に入れる。この国の基本的な作り方であれば味が遠かっただろうが、加奈子はフフに塩を、ピーナッツバターには恐らくごま油と醤油を足してくれていた。おかげでなんだか不思議な肉まんのような風味に感じられ食べやすい。
やはり橋本同様、どこまでも唯斗のことを気遣ってくれる。母親の愛情というものを知らない唯斗だが、きっと、母親の優しさとはこういうものを言うのだろう。
すぐに食べきると、ペットボトルの水を飲んで口を拭い、受話器を手に取る。架電先は外務省だ。
まず外務省には、現状の報告を行う。昨日はバンを、今日はバスを確保したため、状況に応じて邦人をこちらで迎えに行く算段だと共有した。自衛隊の高機動車が必要なさそうで安心した様子だったが、油断はできない。
報告を終えると、今度はガーナの佐伯に電話をかけた。こちらもすぐつながる。
『佐伯だ、状況はどうだ?大使たちの遺体は無事に回収してある。すでにエジプトの大使と協力して、エジプトから成田への直行便に乗せて日本に到着することになっている』
「ありがとうございます。こちらは旅行会社で中型バス2台と運転手1名を確保しました。関係者3名の本邦への保護を条件としています」
『よくやった。これはでかいぞ、この状況で邦人の足を確保できるのは大きい』
「市内の状況ですが、ISによる市内民間人への銃火器の貸与が進んでいます。今日のデモは銃撃を伴う戦闘に近い状態となるケースが散見されました。軍はラヴァルヴィルの防衛とARSNのクーデターの方に注力するようで、市内の軍の力が強まっており、恐らく一度銃撃を伴うデモ活動は収まります」
外務省にも報告した市内の状況を報告すると、佐伯も呻くように「ISか…」とつぶやいた。やはり佐伯も、これが最悪のルートだと理解している。
「そこで、運転手と警備員を大使館に常駐させるべく、彼らの家族も大使館内に滞在させたいと思います。すでにシングルマザーの事務員の息子を公邸で預かっていますが、大使館の宿泊機能も動員するつもりです。30名前後の滞在であっても、食料と水の備蓄はギリギリ18日まで保つ計算です」
『想定される自衛隊の到着が17日、バッファー1日か…本当にギリギリだが、むしろよくここまで事前に用意してある。さすが橋本さんだ。よし、現地関係者の大使館での宿泊を許可する。言うまでもないが、機密破棄してあるとはいえ重要な部屋は入らせないように』
「はい。ありがとうございます」
これで今日打てる手はすべて打った。あとは各スタッフに話を通すだけだ。インナはすでに大使館への避難が決まっているからいいとして、まずはクレアに声をかける。
「クレア、」
「はい、なんでしょう」
「市内の治安が悪化してる。必要であれば公邸に滞在してもらって構わないが、どうする?明日、ウマルたちほかのスタッフの家族も希望があれば収容する」
「…ではお願いします。むしろ、良ければ今日、荷物を取りにって今晩からでもいいでしょうか?」