サヘルの夜明け−30


やはりクレアも今の状況に恐怖を感じているようだった。ここ数年、治安が悪化してラヴァルヴィルで銃撃が起きたこと自体は珍しくないし、昨年末のクリスマスには市内の教会が連続で爆破されるテロもあった。
それでも、ここまで市街地全体の治安が悪化したのは初めてなのだろう。


「もし日本に退避するなら、恐らく家に荷物を取りに帰る余裕はない。それも見越して準備してくれ。インナも、もし退避する可能性があって家の片づけが済んでないなら、一度戻っていいぞ」


今より状況は悪化する。仮に軍が銃撃を伴うデモ活動を一時的に抑制できても、それは一時的なものであり、強硬な手段であればデモ隊以外の市民の移動も厳しく制限される。


「分かりました。まだ心は決まっていませんが、一応、退避する前提で荷物をまとめてきます」

「あたしは日本に退避します。なので、もう荷物もまとめてきました」


クレアは一人暮らしであり身軽だが、日本に行くかは決めかねている様子だ。一方、インナはもう日本への退避を決めており、必要な荷物も持ってきていたらしい。
クレアはインナがもう腹を決めていることに驚いていた。


「インナ、あなた日本で子育てするの?」

「どうだろう、ずっと日本にいるかは分からない。でも、まずは息子を絶対に安全な場所に連れていきたいの。あの子を守れるのはあたしだけだもん」

「そう…そうよね」


クレアの表情は暗い。唯斗はそこで気になっていたことを聞いてみることにした。


「クレア、ご両親は安全な場所にいるのか?市内にいるなら日本に連れていけるけど」

「いえ、両親はサン=アーロンにいます。今は無事なようですが、CMMが接近するようなら、ウーロ・カンネの親族を頼ると言っています。なので、退避するとしたら私だけです」


サン=アーロンは南方高原州の州都であり、州のほぼ中央に位置する。クレア自身は郊外の農村の生まれだが、両親はサン=アーロン市内に居を移しているそうだ。
南方高原州の西部はムスリムのモーレ人によるCMMが猛威を振るっており、キリスト教徒の村落は軒並み襲撃されている。多くのキリスト教モーレ人がサン=アーロンに身を寄せていた。クレアの両親はさらに、南方高原州の東、国土のもっとも南東にあるモンターニュ=ド=ロル州の州都ウーロ・カンネに避難する予定らしい。プラ人とザルマ人が多い地域だが、キリスト教徒とムスリムが概ね半々くらいであり、状況は安定している。
モンターニュ=ド=ロルはフランス語でそのまま「金の山」であり、ウーロ・カンネもプラ語で「黄金の街」という意味であることから分かる通り、この国の金鉱山のほとんどが位置しており、それによって経済も治安も安定しているのだ。


「そうか、分かった。インナは?同居していれば両親も退避できる」

「あたしの両親は先にベナンに避難させました。医者と教師なので仕事はすぐ見つかると思います。あたしも、いったん日本に退避したあと、ベナンに行こうかなと思ってます」


西アフリカ有数の治安のよい国だ、ベナンに逃げられたのなら文句はないだろう。インナも、ずっと日本で暮らすより両親を頼ってベナンに移住した方がいい。それなら難民ではないため、特別在留資格で日本にやってきた身分であっても問題なく渡航できる。

ムスリムであるウマルやムーサたちの親族と違い、インナとクレアは宗教的に今後は虐げられる側になる可能性が高い。家族も含めて避難する算段が付いているのはよかった。


「それならよかった。よし、じゃあクレアはまだ日が高いうちに家に戻って荷物を取りに行ってくれ。インナも、リスト作成が済んでるなら今日はもう退勤でいい、アンリのそばにいてやってくれ」

「はい、では行ってきます」

「関係者リストは作成済みなので確認しておいてください」


クレアは自宅に戻り、インナは唯斗にリストを渡して公邸に向かった。リストは大使館関係者の個人情報がまとめられたものであり、今後は外務省などに共有するものである。ここでいう関係者は、スタッフだけでなくその家族も含む。
リストに問題はないため、唯斗はいったん領事業務室を出ると今度は管理室に入る。



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