サヘルの夜明け−33
「おはよう唯斗」
「リチャードか、おはよう。見張りか?」
「あぁ、ちょっといいか?」
手招きされて呼ばれたため、唯斗はリチャードと屋上へ上がる。ちなみに、リチャードは今日もラフにTシャツとジーンズ姿だった。
屋上は、室外機と雨水タンクだけがある場所で、普段は立ち入らない。今は、屋上から周囲の様子を見張ってくれていたようだ。
階段を上がって塔屋の扉を開き屋上に出ると、朝のひんやりとした空気を切り裂く鋭い朝日が肌にあたる。いつも通り、涼しさと暑さが同時に存在する瞬間だ。
「どうした?」
「今日からスタッフの家族も収容するんだよな。特に、運転手と警備員を常駐させるために家族を保護して帰宅する必要がないようにすることが目的で」
「あぁ。どうかしたか?」
「いや、単純に守る人数が増えるからな。正直、日本人だけでもいいんじゃないか?退避のときに家族を迎えに行くとかでも」
どうやら、リチャードは大使館の人口が一気に増えることを懸念しているようだった。それは唯斗にも理解できる。施設の規模こそ変わらないが、人数が変わるのは守るべき人数が増えることと同義だ。
「俺の仕事は大使館を守ること。それによって、日本人が帰国できるようにすることだ。つまり、俺にとって守るべき対象である『大使館』ってのは唯斗一人だ。唯斗以外のことは正直どうでもいい。現地人は、間に合うヤツだけ自衛隊機に乗せるっていうんじゃだめなのか?」
リチャードの質問に、唯斗は一瞬、なんと答えたものかと言葉に詰まる。
やはり、この男は常人とは思考回路が異なる。普通、大使館が現地協力者を保護するのは人道的配慮だ。この手の質問の答えは、基本的に「人道上の理由」に帰結するため、聞いても意味がない類の質問ともいえる。
それでもこの質問をしてきたのは、本当にリチャードにとって守るべき相手は唯斗だけであり、そのほかへの意識をあまり向けていないからだろう。
確かにこの男は、観光したいがために工作要員を引き受け、運転したいがために護衛対象をよそにハンドルを握るような、傭兵にしては合理性のない行動をとってきた。ただ、それはあくまで合理的な範囲の中でのことだった。
根本的にはやはり、傭兵とは合理性を重視する。
それでも、外交官にこんなことを聞いても人道上の理由としか答えないであろうところを聞いてくるくらいには、その合理性はほかの傭兵よりもある意味で厳格だった。
リチャードは明確に、唯斗と唯斗以外の命とを分けており、唯斗以外の命は唯斗に優先されないと考えている。
そんなリチャードに、橋本大使の言葉が思い浮かぶ。
「…この国に赴任して、橋本大使に初めて会った日、その前に赴任してたアルジェリアでのことを聞かれたんだ」
おもむろに話し始めた唯斗に、リチャードは黙って続きを促す。
「初めて外交官として赴任したのがフランス、そんで次がアルジェリアだった。アルジェリアは、西アフリカの難民がニジェール経由で欧州に向けて北上するルートにあって、たくさんの移民や難民がいたんだけど、アルジェリア政府は彼らを逮捕してニジェールとの国境付近にある砂漠に連行、放置する政策を取っていた」
リベリアなど不安定な国が多い西アフリカ。その難民や移民のほとんどが、ニジェールを経由してアルジェリアかリビアに北上している。ニジェールの方がサハラ砂漠の中にしっかりとした交通網を有しているほか、欧州へ向かうべくリビアに向かう大勢の人々が築いたルートがあるためだ。
しかし、アルジェリア政府はそんな不法移民を容赦なく捕まえ、ニジェールとの国境付近にある砂漠に連行して砂漠のど真ん中で放置するという政策を取っている。
「移民たちが放置される砂漠の地点をゼロ地点という。本当に何もないサハラ砂漠の真ん中だ。当然、多くの人が最寄の集落にたどり着けず命を落とす。隣のリビアでも、こうした移民や難民は搾取され、暴力を受け、地獄のような状況の中でイタリアを目指して地中海を渡り、船の沈没によって命を落とす」
「10年ほど前の難民危機よりはマシになったけど、まだそんな状況なんだな」
「そんなアルジェリアのことを、橋本大使に聞かれた。それを見て、知って、どう思ったかって」