サヘルの夜明け−34
この大使館の大使室で初めて挨拶をしたときに尋ねられたことだ。橋本の表情から、ただの状況報告でもなければ、唯斗のイデオロギーを確かめられているわけでもないことは理解できた。試されているのだろうか、とも思ったが、別に出世欲があるわけでもない、2、3年でまた別の国に行かされるのだから、どうせなら素直に答えようと思った。
「それで俺は、ひどい話だと思ったけど、特に何かを感じたわけじゃなくて、自分が特に何も感じないことにぞっとしたって話をしたんだ」
「何も感じないことにぞっとした?」
どういうことかとリチャードは首をかしげる。橋本は、それだけの言葉である程度理解したようだったが、説明を求めてきた。唯斗はあのときと同じように説明する。
「2011年に東日本大震災があったとき、俺は中2だった。たくさんの日本人の死者に、それを悲しむ人々に、俺自身もつらい、しんどいって感じた。パリで同時多発テロがあったときも、フランスの人々が犠牲になった現場を見て心が苦しかった。でも、アルジェリアではそう感じなかったんだよ。あぁ、ひどい話だな、やっぱアフリカはそうなんだなって。それだけ」
「…、日本人やフランス人に感じたことを、アラブ人や黒人に感じなかったってことだな」
「そう。それに気づいて、ぞっとした。俺、同じ人間なのに、同じだと思ってなかったんだなって。俺は確かにまともな家で育ったわけじゃねぇから、そもそも人の感情の機微とか読み取るの苦手だし、コミュニケーションも得意じゃない。それでも、自分を感情のない、誰にも共感できないひどい人間だとも思ってなかった。なのに、俺はアルジェリアで、町中で連行されるのを見かけた移民が砂漠の中に捨てられると知っても、感情が動いたり共感したりすることはなかった」
自分が「そう」だと理解したとき、絶句した。確かに人間は、自分に近い見た目の他者や共感しやすいであろう相手に対して、同情や同苦をすることができるようになっており、逆に見た目が遠ければそうした機能もやや下がる。
それでも自分は外交官で、フランスにいたときアジア人であることを理由に親族から差別され、そういうことには敏感である自負があった。
それに対して、橋本大使は笑って頷いた。
「大使は、『それでいい』って言ったんだ。人の尊厳を守るとか、人種や宗教を問わず人は平等だとか、そういうのはあえて意識しないといけないことだって。人間はそれを完璧に内在化させられない。どれだけ高度な教育を受けても、どれだけ人徳者に育てられても、人はどこまでいっても差別から逃れられないんだ」
「意識しないと差別はなくせない、自分は差別をしない人間だって事実を自分の中に落とし込むことは完全にはできない、ということだな」
「そういうこと」
やはりリチャードは理解が早い。人間はどう頑張っても、無意識のうちに人を差別してしまう生き物だということだ。それは、人間が生存するために培ってきた社会的動物としての本能に基づく気質でもある。
「差別も、貧困も、戦争も、『なくなる』ものじゃなくて『なくす』ものだ。人のたゆまぬ意識的な努力によってしか実現できないものなんだよ。平和も理想も、人の中には真の意味では存在しない。だから、それを意図的に作らなきゃいけない。そのための国際社会で、そのための外交官だ。大使は、そういうことを教えてくれた」
差別や戦争のない世界を真摯に祈る人の心の中にすら、100%完璧に差別や争いを排除することはできない。それは、人間が社会的動物である以上不可能だ。だが同時に、人間は理想を形にすることができる。
内在化できなくも外形化することはできるのだ。その一つの形が国際協力であり外交だ。
朝日がどんどん高くなる中、唯斗はリチャードを見上げる。リチャードもこちらをじっと真剣に見下ろしていた。
「俺はきっと、黒人の大使館関係者たちが亡くなっても、大使たちが亡くなったときと同じようには悲しまない。大使たちの家族より、現地協力者たちを優先できない。それはどうしようもない俺の本性だ。だからこそ俺は、彼らを守ると自分に義務付けた。彼らの命がこのままだと容易に踏みにじられると理解して、守れるのは俺だけだと言い聞かせて、ここを守ると覚悟した」