サヘルの夜明け−35
屋上から、朝日が照らす大使館を見下ろす。早速掃除を始めたサンガレと子供たちの楽しそうな声が聞こえてきて、公邸の前の中庭ではインナとアンリ、クレアがフフを作っている。正門ではムーサが警備にあたり、公邸の中では加奈子たちが二人の朝食を用意してくれているだろう。
「大使館は国家の尊厳を守る場所だ。国家はひとりひとりの人間からなる。だから今ここは、日本国と日本国民、そして日本を支えてくれたこの国の人たちの尊厳を守る場所なんだ。俺は外交官として、そういう場所として、この日本大使館を守りたいんだ。我儘に付き合わせて悪いな」
それが唯斗の守るものだ。その覚悟を伝えると、リチャードは小さく笑って、そしておもむろに唯斗を正面から抱きしめた。
おとといの夜に革ジャン越しに抱きしめられたときよりも、薄いTシャツによってリチャードの体温がよりダイレクトに伝わる。顎に至っては晒された鎖骨に乗っており、首筋が目の前にあった。
「なっ、え、なに」
「いや!すまない、ちょっとこう、ぐわっときた」
「はぁ…?」
要領を得ない回答に疑問符を浮かべる。しかしリチャードは一人で勝手に合点したようで、うんうんと頷いていた。
「なるほどな、誠実なヤツだと思っていたが、そうか、そういうことか。ただ人のことをまっすぐ見て対等に接しているだけじゃない、自分自身のことも、強さも弱さも含めて直視しているんだな」
「何言ってんだよ」
「うん?唯斗の好きなところの話だ!」
「っ、おまえな…」
昨日は鳴りを潜めていた、「唯斗を好きだと述べるリチャード」が出てきている。この男は本当に、時々で纏う空気も浮かべる表情も言動すらもバラバラだった。
唯斗の困惑をよそに、リチャードは唯斗を抱きしめたまま囁く。
「分かった、君の言う『大使館』の定義に従おうじゃないか。この大使館全体をひっくるめて唯斗を守ると誓おう。俺を助けてくれた君の覚悟が、俺が思っているよりもずっと大きくて、尊いものだったことに見合うように」
「…別に、報酬は支払うんだ、俺があのとき助けたことにそんな拘らなくていいんだぞ」
「自慢じゃないが、俺は傭兵たちの中でも群を抜いて優秀な部類だ。だから、素人の文官に助けられるなんてまずないことだ。うん、そうだな、だから嬉しかったんだよ。誰かに助けてもらえたことが。こんな、たくさんの人間を仕事のために傷つけ殺めてきた俺でも、誰かに助けてもらえるんだって、そう思えたのが。思えば、その瞬間に君に惹かれたのかもしれないな」
よくリチャードが、あのとき駐車場で唯斗が助けたことによく言及するため気にしなくていいと言えば、リチャードは首を横に振ってそう答えた。助けた、なんていうようなことではなかったし、恐らく唯斗が介入しなくてもリチャードは怪我こそしてもあの場を切り抜けること自体はできただろう。
それでも、あの行為そのものに、リチャードにとっては大きな意味があったらしい。その行為の動機となったのが、唯斗の大使館を守りたいという覚悟だったから、リチャードはそれに応じると言ってくれたのだろう。
「…俺も、大使たちの死を悼んでいいって言ってもらえて、救われた。まだ礼を言ってなかったな、あのとき支えてくれてありがとう」
唯斗もほだされたのか、あるいはリチャードが最も心細かったときに支えてくれたからかは分からないが、リチャードのことはある程度特別に思っていた。今は、考えるべきことが多すぎてリチャードに対する感情の変化を自分でもよく理解していない。
それでも今は感情に任せようと、リチャードの首筋に顔を寄せて抱き着くと、リチャードは「え!?」と素っ頓狂な声を上げた。
「唯斗がデレた!両想いか?!」
「ちげぇ、そういうんじゃねぇわ」
唯斗は呆れて体を離す。途端にリチャードは残念そうにした。
「しまった、余計なことを言ってしまった…っ!黙って堪能するべきだった…!」
「はいはい。ほら、朝飯食いに行くぞ。ウマルがウスマンたち連れてくるまでまだ時間がある、正門の開放時の監視はもう少し後で大丈夫だ」
長話してしまったので、そろそろ加奈子たちが呼びに来るかもしれない。塔屋に向かうため踵を返すと、リチャードが上機嫌に鼻歌を歌いながらついてくる。
今もリチャードのことはいまいちよく分からない。だがよく分からないながら、確かに二人は互いに信頼を置くようになっていた。