サヘルの夜明け−42


唯斗はリチャードに続いて自室に入り、後ろ手で扉を閉める。ようやくやるべきことが終わって、あとは寝るだけだ。
ふと、すぐ近くに立ってタオルで長い金髪をガシガシと拭いているリチャードを見て、その逞しい体に気づく。
Tシャツ姿だけでその筋肉はよく見えていたが、こうして服をまとっていないと鍛え抜かれた無駄のない体つきをしているのが分かる。読書灯だけに照らされているとよりはっきり陰影がついているのもそれを助けていた。

つい、唯斗は出来心でその腹筋の筋を指でそっとなぞってしまった。くすぐったいわけではなかったようだが、突然のことに驚いたリチャードはばっとこちらを振り向く。


「唯斗!?」

「悪い、やっぱすげぇ体してんなって思って、つい」


さすがに失礼だったが、と思ってリチャードを見上げると、こちらをじっと見つめる鋭い瞳と目が合った。まるで猛禽類のようなそれに、唯斗はびくりと肩を揺らす。


「俺は君に配慮して随分と遠慮してやったつもりだったんだが、唯斗は簡単にそれをぶち壊してくるな」

「え、と…」

「この状況で手を出されても文句は言えないと思うんだが、どうだ?」

「ッ、」


すっと腰を抱かれるように抱き締められ、むき出しの上体に包まれる。背中に回された逞しい腕は、優しいがしっかりと唯斗を拘束している。シャワー後だからか、石鹸の匂いが漂い、肩にかけられたタオルに金髪から水滴が滴る。まとめられていない金糸はさらりと肩に垂れていた。

欧米には日本のような告白の文化はない。互いに同意があればどんどん関係が先に進んでいくものだ。だから拒絶するならはっきり示さなければならない。

だというのに、なぜか拒絶することができず、言葉が出ない。何より、リチャードにこうして抱きしめられていることで安心したのか、こんな状況で睡魔が首をもたげる始末。
我ながら危機感がなさすぎると思ってしまうが、どうやら自分で思っているよりもずっと、先ほどの銃撃戦と惨状が堪えたようだった。


「…悪いリチャード、なんか、さすがに疲れたっつか…リチャードにこうしてもらうと、なんか安心して、力抜ける」

「え、唯斗…?」


無理やり叱咤して動かした足がようやく休めると思ったのか力が抜けて、唯斗はそのままリチャードの体に凭れてしまう。びくともせずに唯斗を受け止めて抱きしめるリチャードは、少し呆れたようにしつつも唯斗の頭を撫でた。


「うーん、まさか可愛さで乗り切られるとはな…」

「なんだそれ…」

「はは、本当に眠そうだな。無理もない、あんな戦闘初めてだっただろう。よくみんなをまとめて混乱しないようにしてくれたと思うぞ」

「……死んだ10人は、俺の指示で死んだ10人だ」


あからさまに沈んだ声になってしまったからか、リチャードの頭を撫でる手つきはさらに優しくなる。拘束するように抱き締めていた腕は、唯斗の体を支えるものになっていた。


「今朝の話を聞いた限りでは、望まない結果だったか?」

「いや…もちろん死者は減らしたいけど、襲撃してきた奴らの死人を減らしたいのは、単に在外公館として迂闊に人を殺しまくるわけにはいかないからだ。人道的な理由じゃねぇ」

「そうか。やはり唯斗は、そういうところは外交官だな。人道的な理由だったらさすがに困ってしまうが、在外公館として、ということなら理解できる」


単に人を殺したくないという綺麗事ではなく、在外公館としての外聞だと言い切った唯斗に、リチャードは「さすがだ」となぜか称賛してくる。複雑なためとりあえず流しておいた。


「この大使館にいる人たちを守る。邦人を帰国させる。そのためなら俺はなんでもする覚悟だ。でも…やっぱり、きつい。こんな簡単に、呆気なく人が死ぬなんて、あってはならないことだ。なのに、こんな状況に慣れつつある。今こうして力が入らない自分の情けなさに安堵するくらい」


自分はまだ、こうやって人が無造作に死ぬ状況を異質で許されないことだと思えるし、それを見て足が震える。その恐怖があることに、自分がまだ人の死を当然だと割り切れていないことを実感できて、安心したのだ。


「それでいいさ。唯斗は誰かのために必死になれる、誰かのために涙を流せる。それだけで強い。その強さが大切だ。だから、ちゃんとリーダーシップを発揮してみんなを守れている。それはすごいことだ」


褒められたのが嬉しくて、ぐりぐりと肩口に顔を埋める。そこでふと気づく。


「…あぁ、そっか。俺、褒められてみたかったんだ。誰かに認めてもらいたかった。だから、そうしてくれた大使たちが死んだことが、こんな悲しかったんだな」

「唯斗…」


誰にも顧みられない人生だった。自分でも気づかないうちに、誰かに認めてもらいたいという願いが自分の中にあったらしい。
橋本と倉石は唯斗のことを認めてくれていた。若手と侮らず対等に接してくれた。そんな彼らの優しいまなざしが、好きだった。

まだこの事態は終わっていない。彼らの死に報いるためにも、必ず邦人を全員帰還させなければならない。


「だからさ、リチャード。俺はまだ、自分のことは考えられない。今は全員を守って、日本に送り届けることが重要で、それ以外のことには向き合えない」

「…、あぁ、そうだな。俺も、心に余裕があるときに俺のこと考えて欲しいしな。よし!じゃあ今日はもう寝るぞ!」


いつかリチャードにもまっすぐ向き合う必要がある。だがそれは今ではない。
リチャードも頷くと、突然唯斗を抱き上げてベッドに横たえた。突然の衝撃に驚いて少し眠気が覚めて、隣に横たわったリチャードにツッコミを入れることくらいはできた。


「いやなんで添い寝してんだよ」

「俺がそばについてるからな、安心して寝てていいぞ」


リチャードは聞かずに掛け布団を唯斗の体にかける。添い寝、かつ腕枕の状態になっていた。逞しい二の腕に頭が乗っており、目の前にリチャードの胸板が迫る。それこそ服を着ていない状態でされたい姿勢ではなかった。
だがこの姿勢に安心しているのも確かで、再び急速に睡魔がやってくる。


「おやすみ、唯斗。大丈夫、俺が守る」

「…ん、おやすみ……」


なんとかそれに返し、一応最後まで頭の片隅で「これはおかしい」と指摘する自分もいたのだが、この温もりに抗うことができなかった。



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