サヘルの夜明け−50
言い争うクレアとウマル、さらに矛先が向いて加わったインナとどんどん対立が先鋭化していく。
橋本であれば、すぐに収められただろう。そもそも対立が起こらないよう、事前に全員のメンタルケアに努めていたはず。唯斗にはそこまでできなかった。そもそものコミュニケーション能力が足りないし、人生経験にも乏しい。
クレアがただ間違っていることしか言わなかったならまだ楽だった。だが、ムスリムが概して異教徒とのコミュニティでリスペクトに欠ける言動をするのは珍しいことではない。
一方、ウマルが指摘した通り、この事態はキリスト教徒のプラ人による独裁が招いたことであり、既得権益によってムスリムが格差の下方に押し込められていたのも事実だ。経済格差と教育格差が固定され、社会全体でキリスト教徒とムスリムとのレイヤーが上下関係を構築してしまっていたのだ。
この言い争いそのものを解決する手段はない。それがあるなら戦争になっていない。
だが、この狭い共同体をまとめるのは唯斗の責任だ。橋本ならもっと簡単にできただろうが、もういないのだ。
唯斗は大きく息を吸ってから、争いの中心へ向かう。リチャードは少し心配そうにこちらを見ていたが、唯斗はそれでも一人で割って入った。
「…そこまでだ」
「唯斗さん…、でも私間違ったこと言ってませんよね?!」
クレアは止めに入った唯斗にも訴えてくる。一方、ムスリムたちの目線も突き刺さる。クレアに同調するのか、それとも別のことを述べるのか。
「間違ったことは言ってないかもしれないが、言う相手は間違ってるだろ」
「でも…!」
「なぁクレア。お前の前にいるこの男はエドモン・シディベだ。そうだな?」
「はい?知ってますけど…」
唯斗はエドモンの肩を叩いて尋ねる。
「エドモン、今いくつだ?」
「28歳ですが…」
「うわ、同い年か…出身は?」
「生まれはジャーリバ州です。育ちはこっちですが」
「じゃあウマルと同じだな。好きな食べ物は?」
「え…?えと、アデルが作るココナッツとアーモンドとピーナッツバターを使ったスープです。会社の宴会で女性陣が料理を持ち寄ったときにそれがすげぇ美味しくて、それで声をかけたのが出会いでした」
「おいのろけ話は聞いてないぞ」
唯斗が苦笑すると、ようやくエドモンも小さく笑い、アデルが照れたようにする。
一方のクレアは困惑している。いったい唯斗が何をしているのか分からないからだろう。それでいい。驚きや戸惑いは、感情を忘れさせるのにちょうど良いのだ。全員、これまで感じていた怒りや苛立ちが急速に静まり、いったい唯斗が何をしようとしているのかに注目していた。
「クレア。確かにエドモンはムスリムでプラ人だ。でもさ、今までこいつが経験したきたこと、送ってきた人生、それって、なんでもないことだろ。ありふれた、どこにでもいる、ただアデルとアデルの料理が大好きで、娘を猫可愛がりする、ただの男だ。それだけなんだよ。それだけであるべきなんだ」
「それだけって…」
「何の宗教かとか、どんな民族かとか、それは確かに社会の議論をする上では重要なことだ。でも、人と人との関係において、その違いは些細なことだ。そもそも俺たちは全員別個の人間で、まったく違う存在なんだから」
「でも…でも、ムスリムは私たちの生活を侵食します。ルールを守らないし、私たちの守ってきたものを尊重しない。こちらにリスペクトのない集団を、集団ごとリスペクトに値しないと考えることは、間違いなんですか?」
クレアの言うことももっともだ。それこそ、日本はイスラームとの相性が致命的に悪い。日本社会において、イスラームの人間との共生は基本的に無理だ。双方が大切なことを我慢し、双方が不幸にならないといけない。
だがそれは、悪いことでもなんでもないのだ。
「分かり合えないことは悪じゃない。相容れないことは間違いじゃないんだよ。俺たちはそれぞれに譲れない大切なものがある。宗教的にも、文化的にも。その分かり合えなさこそが、人類の多様性の現れだ。俺はむしろ、分かり合えないことこそ大切にするべきだと思ってる」
「分かり合えなくてもリスペクトしろってことですか?それができるなら戦争になっていません」
「そうだな、それは正しい」
クレアはキリスト教徒であり、高度な教育を受けている。唯斗の話すことの文脈で語られることを正確に理解していた。
「俺は欧米の国々みたいに、あなたたちに自分たちの価値観を押し付けることはしない。多様性とか多文化共生とか、そんなもので乗り越えられるほど、この国にある対立は簡単なものじゃない」