サヘルの夜明け−51
いつしか全員沈黙していた。公邸と大使館の屋上からこちらを窺うムーサとウスマンも、黙って聞いているようだった。
リチャードの表情を確認したいような気がしたが、ほどよい緊張感が緩んでしまうような気がして、対立する人々の間に割って入っている今の状況から逃げ出したがっている足の赴くまま、適当に話を切り上げたくなってしまいそうだった。だからそちらは見ないことにする。
「分かり合えないことを押し殺す必要はないし、相容れないことを我慢して自分を殺す必要もない。それを多文化共生と呼ぶのなら、それは一種のファシズムだ。宗教や文化の持つ大切な価値観を否定するものでしかない。でもな、クレア。みんなも」
唯斗は一同を見渡す。夜の暗闇は深く、砂漠気候の冷たい風が吹き抜ける。きっと彼らはこの先も真の意味で分かりあうことはないし、この国ももうだめだ。それでも、と願わずにはいられない。
「…みんな家族が大事で、みんな日々の生活が尊くて、みんな誰かを愛して愛されてる。同じように、みんな怖くて、みんな不安だ。だから俺たちは同じ人間でいられるんだ」
崩壊する国家、消えていく秩序、失われていく日常。それらに対する恐怖はみんな一緒だ。アンリを想うインナの心も、子供たちを想うウマルの心も同じだ。子供たちを失ったらという気が狂いそうになるほどの不安も、これからの生活への心配も、自分の命そのものが奪われるかもしれないという恐怖も、みんな同じなのだ。
「笑顔を向けられなくても銃口を向けないことはできる。手と手を取り合えなくても、拳をほどくことはできる。そのために、その恐怖や不安を、俺たちが全員で協力して生き延びるために共有する感情として、それを絆にしよう」
今のこの場の全員に共通するのは、明日を無事に迎えることができるのか、その先の未来を生きられるのかという恐怖と不安だ。今はそれこそが、この大使館に集った、人種も宗教も違う人々の絆そのものだと思うのだ。
「…俺が必ず、あなたたちの明日を守る。だから今は、未来への不安を絆にして、団結してこの状況を乗り越えたい。日本国外交官として改めて皆さんにお願いします。協力して、この国から脱出しましょう」
唯斗の言葉を聞き終えて、クレアは泣き崩れる。それを支えるインナを、今度は拒絶しなかった。その様子にクレアはもう大丈夫だと判断し、唯斗はパン、と手を打つ。
「さ、時間を取ったけど食事にしよう。早くしないと、大使館の2階から腹空かせた子供たちが突撃してくるからな」
大使館に子供を待たせるウマルたちは笑って頷き、全員が動き出す。加奈子と美紀、アデルが代わりに食事を配っていき、唯斗はその場を離れる。
全員から距離を取ると、リチャードがそっと左隣にやってくる。
「…ちゃんと、できてたか?」
「当たり前だろう?惚れ直してしまったな!」
明るく言うリチャードを見上げると、こちらを見つめ返す瞳と視線が絡む。その目は、以前見たどろりとしたものよりも、さらに底深くこちらをじっと見つめていた。
愛しい、という言葉だけでは済まないようなそれに軽く息を飲む。
「…うん、本当に、まいった。こんなに強く君を想うようになると思っていなかった。ここが英国やフランスだったら、今この瞬間にキスしていたんだが」
「ここがピナルエサヘルじゃなければ出会ってないだろ。つか、お前が住んでる国だったらキスじゃ済まねぇだろが」
「その通りだな!俺の家に連れ込んで外に出られないようにしていたかもしれない。残念だ!」
「いや誰がそこまで言えと…」
とんでもないことを言い出すリチャードに呆れてしまう。何が問題かといえば、すべて本心だということだ。口調こそ明るいが、その声音は本心から言っていると分かる。そもそも目が笑っていない。
「…ほら、俺たちも食べに行くぞ。食いっぱぐれる」
「あぁ!」
これ以上話を続けると何を言い出すか分からない。唯斗はさすがにここで切り上げ、リチャードもそうなると分かっていたのか特に食い下がることもなかった。
むしろ、唯斗の方が自分を制するためにも話を切り上げた節もある。なんとかこの場を切り抜けたことに今更心が波打ってきているようで、二人きりだったら、ついくっついてしまっていただろう。
リチャードのことにはまだ向き合えない、とは言ったが、向き合うまでもないような気がするのは、今は見ないふりをした。