サヘルの夜明け−59


そして唯斗は食事を終えて大使室に戻る。食事中に停電してから一度も復帰しておらず、いよいよインフラはダメかもしれない。懐中電灯で廊下を照らして大使室に入ると、リチャードがソファーに座っていた。
今晩は唯斗の部屋も邦人に提供しているため、二人は大使室で寝泊まりすることになっている。シッティングスペースのローテーブルに置かれた蝋燭のわずかな明かりに照らされたリチャードの金髪が照明のように見えた。


「シャワーできたか?」

「なんとかな。でももう温水にはならないな。恐らく、もう電気は復旧しないと思うぞ。南部の混乱で石油の輸送が停止して発電できなくなったんだろう」

「マジか、今日寒いのに」


今晩はいつもよりやや気温が低い。外を歩いていても寒さが気になった。リチャードの見立てには唯斗も同意だ。インフラ施設のキリスト教徒の社員もいなくなっている状況であり、石油の輸送が止まって発電所も機能を停止したとあらば、ガスと水道も明日には止まるだろう。

唯斗は大使室に備え付けられたシャワー室に入り、簡単にシャワーを浴びる。恐らくこの国で最後のシャワーとなるだろう。念入りに体や髪を洗っておく。
やはり、冷水が出続けるため体が震える。屋外の気温は10度から12度ほどで推移しているようで、館内も底冷えするような気温だった。

シャワーを終えて、可能な限りタオルで髪の毛を乾かし、厚手のトレーナーとスウェットを着る。暖かい毛布を持ってきておいてよかった。二人が寝るソファーには、枕代わりのバスタオルと毛布だけしかない。

震えながら大使室に戻ると、リチャードは珍しく本を読んでいた。武器のメンテナンスはすでに終わらせてあったのだろう。蝋燭の炎が揺らぎ、端正な顔を照らし、厚い胸板に生地が引っ張られるシャツに本の影が落ちる。

なんだか暖かそうだな、と思った唯斗はつい、ほんの出来心で、リチャードのもとに近寄った。


「どうかしたか?」


何か用かと本を置いたため、体ががら空きになる。その隙に、唯斗はリチャードの足の間に腰を下ろすと、硬い体に凭れた。
自ら抱きしめられに来たかのような唯斗に、リチャードは一瞬間をおいてから素っ頓狂な声を上げた。


「えっ!?唯斗!?ど、ど、どうした?!」

「ふは、慌てすぎだろ」


わたわたとしてから、リチャードはとりあえず唯斗を抱きしめる。太い腕が唯斗の体を拘束するように回り、背中でも体の前でもリチャードの体温を感じられた。やはり基礎代謝が違うため体温が高く、その温もりに息をついた。
唯斗の様子と体温の冷たさから唯斗の意図を理解したのだろう、リチャードは唯斗の腕を軽く摩る。


「寒かった?」

「めっちゃ寒かった。嫌だったらどくけど」

「絶対離さないからな!嫌でも離さないぞ!」


ぎゅっと深く抱きしめられ、唯斗もよりしっかり体重を後ろにかける。受け入れてくれるとは思っていたが、不安がなかったと言えば嘘になる。リチャードの気分によって触れられたくないというときもあるかもしれない、とは思った。だが絶対に離さないという不屈の決意のようなものまで示されると逆に引いてしまう。

ただ、温かくて安心するのは確かで、唯斗は後頭部もリチャードの鎖骨あたりに預けた。


「…検問を抜けたとき、少し様子が変だったが、大丈夫だったか?」


するとリチャードは、唯斗の耳元でそう優しく尋ねてきた。恐らくマリックの遺体を見たときのことだろう。後ろに座っていた唯斗の様子に気づいていたとは恐れ入る。唯斗は頷いて答える。


「あぁ、今は大丈夫。4日前、大使館を閉鎖してリチャードに出会ったあの日に、新しく採用したばかりだった警備員二人が反政府軍に加わるって言って出ていったんだけど、その片方の遺体を見たんだ」

「よく覚えていたな」


悲しいな、とか、残念だな、とか、そういった言葉ではなく無感動に「よく覚えていた」などと言うあたり、やはり傭兵だと思う。


「…その警備員たちは、クレアとの衝突があったらしくて、それも辞める原因の一つだった。もし俺が、クレアとほかのスタッフがぶつからないようにケアして、ここにいる方が安全で合理的だと思わせることができていたら、あいつは死ななかったかもしれない。まだ若い妻も、幼い子供も、こんな状況で路頭に迷うことはなかったはずだ」


そんなことはしょせん「たられば」の話でしかない。事実として、唯斗にはそんなことはできなかった。リチャードも、そう唯斗が自分で理解していると分かっているようで、無言で続きを促す。


「俺のせいだとは思わない。俺に責任があるとも言わない。あいつが自分で決意したことだ。なんであれ、この国を変えたいと思って行動した結果だ。妻子を残すリスクを冒してでも銃を手に取ったのはあいつだ。それでも…」

「それでも、生きててほしかった?」


言葉に詰まった唯斗の代わりにリチャードが続きを述べる。唯斗は頷く代わりに、リチャードの腕の中で姿勢を変えて、体の左側でリチャードに凭れるようにしつつ肩口に顔を埋めて抱き着いた。リチャードは改めて唯斗を深く抱きしめなおしてくれる。


「……死んでいい人間なんていねぇんだ。こうならない未来を示すチャンスが俺にはあった。それができなかったのは、これまでの俺の怠惰だ。人と向き合わずにコミュニケーション能力を育ててこなかった、俺の未熟だ。今更後悔してる。もっとちゃんと、生きればよかった…!」


もう少し普通の人間であれたなら。そう思わずにはいられなかった。結果としてマリックはいずれにしても大使館を離れて命を落としたかもしれない。だが、唯斗は自分にできることをできなかった後悔があった。


「唯斗の後悔を否定はしないさ。でもな、唯斗はこうして、22人の現地人と20人の日本人を保護して、47人もの集団となった大使館をまとめてる。唯斗の努力が、みんなの命を救った。何よりも、俺のことも救ってくれた。俺は、そんな唯斗の強さと、その強さをもたらした弱さを、好ましく思ってる」


しかしリチャードは、唯斗の後悔を否定こそしなかったが、唯斗が救えた命に意識を向けさせた。それだって橋本大使の残してくれたものに大いに助けられてのことではあるが、リチャードの肯定に、今は救われた。


「…ありがとな、リチャード」

「礼には及ばないぞ。口説いただけだしな?」


それに礼を述べると、リチャードは茶目っ気ある笑顔でそう言った。いつも通りのリチャードに唯斗は苦笑する。
そしてリチャードは、器用に反対側のソファーから毛布を回収してから、唯斗ごとソファーに倒れた。その際、これもまた器用に唯斗を奥側へと押しやり、落ちないようにしてくれる。


「いや、さすがにソファーに二人は狭いだろ…」

「でもこの方が温かいだろ?」


リチャードの体温と二枚重ねられた毛布によって、確かに暖かい。二人で寝ることのメリットが初めて感じられたほどだ。大きなソファーであることもあり、リチャードはギリギリ落ちないようだった。
腕前されるのも慣れたもので、唯斗はリチャードの胸板に額をつける。

リチャードと出会って4日しか経っていないにも関わらず、これほどまでに唯斗の中で大きな存在になるとは思っていなかった。
明日、少なくとも明後日にはこの国を脱出し、リチャードとの別れの時が来る。そのときにどうリチャードに思いを返すのか、まだ決められていなかった。



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