サヘルの夜明け−60


2024年1月18日

ついにその日となった。
いつもよりも1時間以上早く起きた唯斗は、リチャードがまだ室内で準備していたことに少し驚いた。


「…あれ、交代してなかったのか」

「おはよう唯斗。これから交代だ。ウスマンとムーサは荷物の整理をしてもらう必要があるからな」


どうやら、警備二人が脱出前の荷物整理ができるよう、交代の時間を少しずらしていたらしい。大使館の中はすでにやや物音があちこちでしており、多くの人々が起床して準備を進めていることが分かる。
時刻は5時半、さすがに少し早すぎるが、眠れなかったということもあるのだろう。

唯斗が朝の支度を始めたころにはリチャードは部屋を出て屋上へ向かった。まだ日が出ていないため外は薄暗いはずだ。
とりあえず朝の支度そのものはいつも通りに行う。ラジオはまだ始まっていない。身支度を整え、ワイシャツとスラックスに着替えたころにようやく番組が始まった。報道では、ジャーリバ州から接近してきていた旧東方師団からなるクーデター軍、ARSNが中央州に侵入したことを告げていた。といっても、ラヴァルヴィルは中央州の西部に広がっており、中央州の東から入ってくるARSNはまだ距離がある。中央東州の近くを通っていることもあって激戦の中を進軍していることも進みを遅くしているだろう。

外に出ると、吐いた息が僅かに白くなる。10度を下回っていたようだ。太陽が出ればすぐに気温は上がるだろう。
公邸に入ると、加奈子とクレア、ムーサの妻マリー、エドモンの妻アデルが朝食を作っていた。


「おはようみんな。加奈子さんもおはようございます」


挨拶をすれば全員笑顔で返してくれた。落ち着いた様子だ。


「加奈子さん、備蓄の残りはどうですか?」

「ちょうど丸一日分ね。今日失敗しても一日は保つわ」

「ありがとうございます。私は先に大使館の整理をしてきます」


唯斗はいったん公邸を後にすると、再び大使館に戻る。整理といっても、すでに機密破棄は終わっているため、処分するべき書類やデータはない。今日避難する人々のリストは、昨晩のうちにまとめた手荷物にすべて入っている。
行うのは最終確認や戸締りのチェックだ。出発するときにも行うが、現時点で人が使っていない部屋はもう施錠してしまうつもりだった。領事業務室、業務用の倉庫、事務室などの中を確認し、廃棄するべきものがないかを確かめ、最後に施錠していく。

少しして、ウスマンが下りてきた。


「あ、唯斗さん!おはようございます!」

「おはようウスマン。あ、ちょうどよかった、少し手伝ってくれないか」

「もちろん!」


ウスマンは嫌な顔一つせずに頷いてくれたため、一緒に玄関に出る。そして、玄関の上の外壁に斜めに刺さっているポールにかけられた、日本国旗の回収をお願いした。
ロープが高い位置にあり、風で飛ばないようきつく止められているためだ。屈強なウスマンですら少し硬そうにしていたため、唯斗では外せなかっただろう。
ウスマンはロープを外し、国旗を下げていく。そして唯斗でも届く位置に来たところで、唯斗が国旗を丁寧に外して回収した。


「ありがとな、助かった」


そう言いながら、いよいよ国旗を失った大使館に込み上げるものがあり、ぐっと唇を引き結んで国旗を抱きしめる。それを見て、ウスマンは優しく唯斗の背中をぽん、と叩いた。


「ここで働いて4年ですけど、どの大使も外交官も、素敵な人たちでした。俺が日本を尊敬してるのは、ここのおかげです」

「…うん、ありがとう。俺も、この国が好きだったよ」


もうこの国は崩壊する。政府がどう頑張ろうと、それは避けられない。そのあとピナルエサヘルがどうなるのかは分からないが、なんであれ唯斗は、この国に来られてよかったと思う。
この国旗が、大使館が守ってきたものがどれだけ大切なものか、改めて実感できたような気がした。



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