サヘルの夜明け−68
2024年1月19日
午前6時、唯斗が目を覚ますと、大使用の寝室にリチャードが帰ってきた形跡はなかった。恐らく一晩中、屋上で警戒にあたり、その場で仮眠を取ったのだろう。それが必要なほどの状況だったということだ。
1人で寝るのが久しぶりなような気がしてしまい、昨晩唯斗はあまり寝付けなかった。ここまでぐっすりだったのが、リチャードのおかげだと実感させてられてしまった形だ。
寝室にあるシャワー室にて、バスタブに貯められた水を使って支度をすると、唯斗は白のTシャツに黒のテーラードジャケット、ベージュのチノパンにシューズという動きやすい恰好に着替えた。もはやスーツなど着ていられる状況ではない。
こういう服装をすると若く見られてしまい、外交官としては避けたかったのだが、ぜいたくは言っていられなかった。
こんな早朝でもなお、時折銃声が朝の空に響きわたる。夜もずっと戦闘が続いていたようだ。
空に上る煙の数が増えているのは、それだけ火災が起きていることを示す。ほとんどが通りで燃やされた車だろう。
今の市内で起きているのは、反政府勢力と政府軍・フランス軍との戦闘、反政府勢力同士の抗争、さらに犯罪集団による襲撃や、各勢力による強盗、略奪、暴行である。
まさに地獄といった状況だった。
こんな中を、唯斗は1区のフランス領事館まで行かなければならない。
唯斗は準備を終えてキッチンに降り、すでに朝の用意を始めようとしていたインナとクレア、マリーと簡単に朝食の方向性を決めてから、大使館へと向かった。
玄関から中に入り、一気に屋上まで上がる。
屋上に出ると、低い姿勢でリチャードの近くまで歩いた。
「おはようリチャード」
「おはよう。眠れたか?」
「あんまり。なんかダメだな、お前がいないと」
唯斗の言葉が意外だったのか、リチャードはばっと勢いよくこちらを振り返る。
唯斗は咳払いをして本題に入った。こんなところで馬鹿な話をしている暇はない。
「7時半くらいになったら、フランス領事館に向かいたい。運転は俺がする。行けるところまで車で行って、状況を見て車を捨てて徒歩で領事館へ行こう」
「…ウマルには頼らないんだな」
「ウマルが死んだら一家は終わりだ。連れていけない」
「分かった。名実ともに、唯斗だけを守るときが来たな」
こんなときでもそう言ってにやりと笑ったリチャードに、こんな状況だからか、さすがに頼もしく感じてしまう。いや、最初からずっと、唯斗にとってリチャードはそういう存在だった。
「もう蛇口のはったりは効かないからな。任せた」
「あぁ!準備しておくから、出かけるときに声をかけてくれ」
「ん、分かった」
唯斗は話をつけたため、屋上を後にする。
2階に降りると、まずウマルの部屋に向かった。各部屋で起きている気配がするため大丈夫だろう。
ノックをすると、すぐにウマルが出てくる。
「おはようございます唯斗さん。どうしました?」
「話がある。入っていいか?」
「どうぞ」
ウマルに通され客室に入る。サンガレが娘の髪をとかしており、ほかの子供たちはまだベッドで寝入っていた。
サンガレは入ってきた唯斗に礼をしてから、支度の続きをする。
「ウマル、俺はこのあとフランス領事館に行ってくる」
「車ですね、何時でしょう」
「いや。今回は俺が運転する」
「な…っ、」
ウマルはそれを聞いて驚いた。話を聞いていたサンガレの手も止まる。
「こんな状況で危険すぎます!」
「だからだよ。行くのは俺とリチャードだけだ。ウマルに何かあったら、誰がサンガレたちを守れる?外交官に代わりはいるが、父親はお前だけなんだぞ」
ウマルは息を飲み、サンガレは胸元を握りしめる。唯斗はウマルの肩に手を置いた。
「もし俺が戻ってこなかったら、自分たちでフランス軍に合流するんだ。あんまりこういうことは言いたくないけど…助けた外国人の中にはフランス人がいる。フランス人を助けるために協力するよう言えば、フランス軍は助けてくれるはずだ」
「そんな…しかし……」
「分かるだろ。もうここに外交官は俺しかいない。俺が死んだら、自分たちでなんとかウーロ・ジャムまで行って、日本の自衛隊に合流するんだ。もしもの時のために、大使室のデスクに、全員分の送り状がある。それを自衛隊に見せれば保護してもらえる。ムーサとウスマンは武器を持って戦う仕事がある、だからウマルが俺の代わりをやるんだ。いいな」
もしもを覚悟する唯斗に、ウマルは項垂れる。サンガレもやってきて、夫の背中を摩った。そして、そっと唯斗にハグをする。
「あなたにアッラーの祝福があらんことを」
「ありがとう」
目元を拭ったサンガレとウマルに、「もしもの話だから心配するな」と言い残して、唯斗は部屋を後にする。
あまり不安を広めるわけにもいかないため、ほかの者たちには言わないつもりだ。リチャードからムーサとウスマンには話が通ることだろう。
公邸に戻って朝食を取るが、せっかくの中華風のフフもあまり味がしなかった。どうやら、自分で思っているよりも緊張しているらしい。
太陽が出てきて、周囲の建物や自分たちを狙う銃口に気づけるような明るい時間になって気温が上がっているはずなのに、体は不思議と冷たかった。
そして最後の準備も終えて、外交官パスポートなどをポケットに入れて身軽になると、トランシーバーでリチャードに出発を伝えてから駐車場に向かった。
いよいよ唯斗は、戦場に出るのだ。