サヘルの夜明け−70
すると突然、路地の交差点で右折側の道をふさいでいたトタンの上から、男が飛び込んできた。たまたまトタンの壁を乗り越えてこちらにやってきたところに、ちょうどリチャードが差し掛かっていたのだ。
リチャードは唯斗の手をすぐに離して避けようとしたが、リチャードと男は思いきりぶつかる。しかし男も何かの心得があるのかすぐにリチャードに気づき、銃を撃たれないよう体を寄せて掴みあう。
互いにライフルを持って取っ組み合いになり、両手が塞がっていた。男はモーレ人のようなのでCMMの兵士だろうが、その腕力は非常に強くリチャードが若干押されており、少しでも距離を取ればお互いに銃を撃ち合えてしまう。
一方、背後からは追手が迫っており、男は粘れば勝ちという、こちらが圧倒的に不利な状況だった。
「唯斗逃げるんだ!」
リチャードは男と組みあいつつ唯斗に逃げるよう言うが、唯斗にはもう、それをおとなしく聞いて逃げるつもりなどなかった。
唯斗はさっとリチャードに近づくと、腰のホルスターから拳銃を引き抜く。それを素早く、男の額に押し当てた。
「動くな」
「っ、」
男は息を飲んで動きを止める。唯斗は男を睨みつけてフランス語で畳みかける。
「この距離なら素人でも殺せる。そして、俺はこの状況なら合法的に人を殺せるから、こういうの楽しみにしてたんだよ。嫌なら銃を捨てろ。今すぐ」
アジア人の身なりの良い若い男には撃てない、などと思わせないように凄んだ唯斗の目に男は怯えを見せ、ライフルを地面に落とした。力を抜いて、少しずつリチャードから離れる。
瞬時にリチャードは男のライフルを蹴とばして離れさせると、銃の柄で男の鼻を思い切り殴りつける。唯斗はすぐに男から離れており、リチャードは呻く男の眉間をライフルで撃ち抜いた。血しぶきが背後のトタンに飛び散り、唯斗はその鮮やかな赤から目を逸らす。
恐怖や不快感からではない。鮮血を見ても何も感じないほどそれを見慣れていることに気付き、意図的にこれ以上慣れないようにするためだ。
実際、リチャードはともかく唯斗まで息を切らしている。走ってきたからだけではなかった。それは死線をくぐり抜けている状況を生き抜くための、本能的な興奮によるものだ。頭が冷静でいられるのはリチャードがいるからである。
だが、リチャードと初めて会ったときのように手が震えることはなかったし、膝から力が抜けてしまうこともなかった。
「ありがとう唯斗、また助けられてしまったな」
「…言っただろ、次は蛇口のはったりは効かないって。今回はちゃんと本物だ」
唯斗は拳銃をリチャードに返す。リチャードはホルスターに拳銃をしまうと、再び唯斗の手を引いて走り出す。
路地裏を走っていくと、リチャードが前から問いかけた。
「さっきの人殺せるの楽しみにしてたって本当か?本当なら悪いことしたな」
「んなわけねぇだろ!在外公館がそんなことできるか!」
「ははっ、そりゃそうだ!唯斗は名俳優だな!」
何を当たり前のことを聞いているのか。また随分と楽しそうなリチャードに、こんな状況で、先ほどに至っては命のやり取りであったというのに、こんな態度でいられることに内心で少し戦慄する。だが、冗談を返せた唯斗もよっぽどといったところか。
そこから5分ほど走ると、今度は進行方向から別の声が聞こえてきた。プラ語で、「何事だ!?」「誰が追われてる!?」という話しているようだ。リチャードはそれを聞いて減速する。
「ISの奴らが来てるぞ!」
「誰か追ってる!市民か!?兵士か!?」
その会話に、唯斗はピンときた。直後、路地の先の曲がり角から銃を持った男たちが現れた。話していた男たちだ。すぐにリチャードは銃を向け、男たちも驚いてこちらに銃口を向けるが、唯斗はリチャードの背中から出て「待て!」とプラ語で叫んだ。
「なっ、唯斗!?」
驚くリチャードの銃身に手を置いて下げさせる。アジア人と白人、そして銃を下ろさせるのを見て男たちは訝しんだ。
唯斗を男たちに尋ねる。
「あんたら、JMASだろ」
「なんで分かった」
「ISに誰かが追われてるってプラ語で話してただろ。DASAKはマンデン系、CMMはモーレ人だから、プラ語を話すならISかJMAS、ARSNだ。ARSNは軍人の集まり、服装からあんたらはJMASだと判断した」
プラ語を喋る反政府勢力ならISかJMAS・ARSNであり、先ほどの会話でISでないことが、服装からARSNではないことが分かる。
そしてJMASは反政府勢力ではあるが反仏勢力ではないため、外国人嫌悪を動機としていない。
「俺は日本の外交官だ。こっちは傭兵。フランス領事館に行きたい、道を通してほしい。金なら出せる」
ポケットから適当にドル札を見せる。男たちは少し悩んでいるようだったが、背後から別の男が現れる。
「…やはりあなたですか」
プラ語で話す男は唯斗を知っているようだった。記憶をたどり誰かと考えるが、ふと思い出す。
「……まさか、大使館の近くのガソリンスタンドにいたヤツか?」
「はい、あそこのスタンドのスタッフ、ミシェルです。あなたのことはよく覚えています」
男たちは、現れた男が上役だったのか、慌てて道を譲る。ミシェルという男は、大使館の近くのガソリンスタンドで働いていた人物であり、大使たちが亡くなる直前にガソリンの備蓄を買い出しに行ったときも対応してくれたスタッフだ。
どうやらJMASに加わっていたらしい。
「いつも我々スタッフに分け隔てなく接してくれていた。高圧的なことはなく、見下すこともなかった。私たちに配慮すらしてくれていましたね」
それは橋本に言われた教えに従って、外交官としてそう振る舞っていただけだ。だがミシェルは、それをよく覚えていてくれたようだ。
「無事でよかった。フランス領事館には中央病院から行くんでしょう、この先の中華料理屋の右側にある路地をまっすぐ行ってください」
ミシェルは路地の先を示す。唯斗たちを見逃すどころか、中央病院までの行き方まで教えてくれた。
橋本は言っていた。結局最後は人と人とのつながりがものを言うと。フランス領事ニコラ、米国大使ジョンの件でもそれを感じたが、それは橋本自身の力だった。
だが今回は、橋本の教えでそれを実践していた唯斗に返ってきたものだった。
また、守られた。そう実感し、唯斗は持っていたドル札を握らせるようにミシェルと握手をする。
「あなたと、この国の人たちの、平穏と無事をずっと祈ってる」
「あなたもお気をつけて」
唯斗は頷いて、再びリチャードとともに走り出す。
背後からは、プラ語で「この先には行かせないようにするぞ!」というミシェルの声が聞こえていた。