サヘルの夜明け−75
11時45分、日本大使館が保護した現地人を移送するための車が出発した。
1台目のバンの運転はムーサ、乗るのはムーサ一家とインナ、アンリ、クレア、唯斗、リチャードの計11名だ。この車の警備はリチャードが担い、助手席から窓を開けてライフルを慎重に構えている。唯斗は運転席の後ろに座り、アンリ含む子供たちは通路側にはみ出ている。荷物を窓側と足元に置いており、座りきれないためだ。
2台目のバンの運転はウマルであり、乗っているのはウマル一家とウスマン一家の計10名。警備はウスマンが担う。
もともと1台目についていた小さな国旗は取り外されており、一見するとなんの車だか分からない。
マリア病院を出発し、1区の北側を東に向かってジェイターレ川を越えて2区に入る。ここまでは政府軍の管轄下にあるため、検問こそ多いが問題なく通行できた。
やがて車は2区北部で左折、北へと向かうマロリ通りに入った。その名の通り、この道は2区からまっすぐ北上してマロリ湖に至る道であり、片道2車線の広い道だ。
とはいえ、打ち捨てられた車が多く、実質的な道幅は片道1車線分しかない。避難民を狙ったテロが頻発した場所なのだろう。道の先には、ラヴァル川を超える橋が見えてきている。あの川の向こうは8区、現時点でどこの勢力圏にもなっていない空白地帯であり、何が起こるか分からない領域だ。
橋の少し手前で減速し、ムーサとリチャードは慎重に周囲を見渡す。やはりこの周辺は沈黙が満ちており、川の水の流れが聞こえるだけで、人の気配はなかった。完全にゴーストタウンだ。
「…狙撃反応なし、クリア。進め」
リチャードが短く言うと、ムーサが発進する。見晴らしの良い橋は狙われ放題だ。ムーサはエンジン音を響かせ過ぎない程度に加速し、一気に橋を渡り終えた。
後続のバンも無事に渡り、2台とも8区に入る。
引き続きマロリ通りを北上し、マロリ湖の手前で左斜め方向に曲がりカコンジ通りに入る交差点を目指して道路を走る。北西に伸びるカコンジ通りも、その名の通りカコンジ地区に向かうものであり、マロリ湖の南西側を抜けて湖の西側に広がるカコンジ地区で国道82号に合流する道だ。
8区になった途端に道路がガタガタになりバンが揺れる。この辺りはムスリムの低所得者が住む住宅街であり、背の高い寂れたアパートが立ち並ぶ。無機質に並んだ室外機の群れが不気味だった。
すると突然、東の方から銃声が聞こえてきた。そんなに近くはないが、明らかに戦闘音である。東ということは、マドゥー地区にあるARSNの拠点だろう。恐らく、DASAKによる襲撃を受けている。
「じきにこっちまで来るぞ、スピードを出すんだ」
リチャードが指示を出し、ムーサはアクセルを踏む。数分して、右側のアパート群がひどく崩落している箇所に差し掛かる。ミサイルによる空爆を受けたのだろう、パンケーキクラッシュと呼ばれる、建物の各フロアがミルフィーユのように重なる崩れ方をしており、折り重なる各フロアの床が道路にはみ出ている。
瓦礫を避けながら進むと、瓦礫に覆われて塞がれた右折道路の向こうに、複数の車が見えた。車体の上には銃を持つ男がいる。
「敵だ。どっちかは分からない。右にいる」
「了解、急ぎます」
ムーサはさらに速度を上げる。すると今度は、瓦礫の合間から兵士たちが現れた。車の音を聞きつけたのだろう。
すかさず、兵士たちはこちらに銃撃してくる。軍服ではないため、恐らくDASAK連合軍だ。近くのアスファルトを銃弾がえぐる鋭い音が響き、礫石が車体にあたる音が車内に満ちる。インナとクレアは悲鳴を上げた。
さらに、マロリ通りの後ろに先ほどの車が猛スピードで現れ、加えて通り過ぎた交差点の右方向には検問が見えた。あの検問からも敵の車が来てしまうだろう。
「クソ、追いかけてくんなよ…!」
こちらをターゲットにしたのか、DASAKのものらしき車がこちらに向かってとてつもないスピードでやってくる。さらに、後方から銃撃が始まった。銃声が通りを響き抜けていき、母親たちが子供を庇うように抱き寄せる。
「屈め!」
唯斗はそう叫んで自身も姿勢を低くする。全員窓から見えないようにしているが、後部座席の窓が1枚被弾し、大量の罅が入って真っ白になる。角度的に割るには至らなかったようだ。近くに座る子供たちの悲鳴が上がる。
リチャードは牽制のため、開いた助手席の窓から身を乗り出しライフルを射撃する。
そんなリチャードを狙う銃弾が助手席の扉を貫通し、助手席の下部に着弾する大きな音が車内に響いた。座っているリチャードには影響がないとはいえ、まったく微動だにせず、撃ってきた男を正確に仕留めていた。
そこに、クレアの涙ながらの祈りの声が聞こえてくる。
「たとえ死の陰の谷を歩むとも、私は災いを恐れません。あなたは私と共におられ、あなたの鞭と杖が私を慰めます」
旧約聖書、詩編23篇4節の極めて有名な言葉だ。このような状況で、よく敬虔なキリスト教徒が口にする。銃弾の音が何発も響く中、クレアの唱える言葉を聞きながら、インナとアンリも手を組んで目を閉じていた。世俗派のインナですら、神の救いを求めていた。少し前ならクレアはこのような時だけ神に縋ることを批判しただろうが、今は、クレアがインナの肩を抱くようにして、二人でアンリを庇っている。
「ハスブナッラーフ・ワ・ニウマル・ワキール、ハスブナッラーフ・ワ・ニウマル・ワキール…!」
さらに、ムーサの妻マリーは、4人の子供たちを抱きかかえながらアラビア語で唱える。こちらもムスリムがこうした状況で好んで復唱する言葉であり、クルアーン3章173節に登場するフレーズだ。
「حَسْبُنَا اللهُ وَنِعْمَ الْوَكِيلُ」と書き、意味は「神は我々にとって十全な存在であり、もっともよき管理者(保護者)である」というものである。子供たちもじっとマリーの腕の中で顔を伏せていた。
そんな中、だんだんと銃声が減ってくる。リチャードとウスマンが通り沿いに展開していた兵士をほとんど撃ち殺したようだ。一方、ぴったりとついてくる敵の車についても、リチャードはさすがの腕前で、追いかけてくる3台の車のうち1台を停車させた。運転手を殺したのだろう。
だが、検問の方からさらに3台がやってきたため、合計5台が車列の後についてきていた。
とはいえ、後から来た3台は一瞬マロリ通りを過ぎて交差点を進みすぎ、急いでバックして通りに入ってきていた。それを見て唯斗はハッとする。