サヘルの夜明け−77


13時頃、大使館の車はスラム街に入った。トタンや木の板、レンガで作られた粗末な家が、互いにくっついて巨大な一つの長屋のようになっている。狭い道をいっぱいにしながら進む巨大なバンに、住民たちは訝しんでいた。

そこに、警戒した男が1人近づいてくる。それを見てすぐにムーサは窓を開けた。


「久しいな、ジル」

「っ、ムーサ!久しぶりじゃねぇか!」


ジルという男はすぐに喜びの色を浮かべ笑顔になる。車は一時停止し、ムーサとジルは固く腕相撲のときのような姿勢で握手を交わす。会話はプラ語だ。


「いったい何事だ?大使館の警備員だったよな、お前」

「あぁ。勤め先の日本大使館の外交官とスタッフを乗せて陸軍基地に向かってる。マリーと子供らもいるぞ」


後部座席では、マリーが窓を開けてジルに挨拶をしている。子供たちも知り合いを見て表情を和らげていた。


「日本の外交官!?見てぇ!」

「ダメだ、お前みたいなのが話していい相手じゃない」


ムーサはすげなく返したが、唯斗は窓を開けて顔を出した。


「俺がその外交官だ」

「唯斗さん…」

「おー!え、子供じゃね!?」

「これでもムーサと3つしか変わらないからな」

「マジ!?てかプラ語じゃん!?」


唯斗を見て驚き、年齢に驚き、さらにプラ語に驚く。いちいちリアクションが大きくて愉快なため、唯斗は思わず苦笑する。ムーサも呆れたようにしていた。


「こんなでかい車で乗りこんで申し訳ない。町中でDASAKに追われて、ここを通り抜けて基地に向かうことになったんだ」

「まぁムーサがいるんなら大丈夫だろ。てかまさかムーサ、お前たちも日本に亡命すんのか?」

「一時的に退避することにした。クーデター軍ならともかく、ISあたりは西側の大使館に勤めていた人間をどうするか分からないからな」

「それはそうだな…そうか、寂しくなるぜ」


ジルの言葉に、ムーサと二人で扉越しに軽く抱き合って互いに背中を叩く。きっと、スラムでともに育った仲間なのだろう。外見的には兄弟ではなさそうだった。
ジルはこちらに再び意識を向ける。


「俺は日本に感謝してる。このスラムの井戸、水が汚染されててみんなひでぇ病気になってさ。日本の支援で井戸の浄化をしてくれたんだと。詳しくことは分からねぇけど、日本人が井戸を工事してから病気になる人間がめちゃくちゃ減ったんだ。ムーサが日本大使館の警備員になるっつって軍をやめたのもその時。だから、こうして助けになるなら俺も嬉しい」

「そうか…ありがとう、その言葉は俺も嬉しい。どうか元気で」

「あんたもな!ムーサたちのこと、頼んだぜ!」


そろそろ時間だ。ガソリンのこともある、ムーサは少し名残惜しそうにしながらもジルと別れて進みだした。
ここはムーサにとって故郷だ。ここに家族や大事な人を残して、妻子とともに極東へと旅立つのである。


さらにそこから北上し、丘を越えてスラムの北側に差し掛かると、いったんムーサはある家の敷地に入って車を停めた。この辺りはスラムの中でも家が大きく、塀に囲まれた庭のようなものまであった。そこをぎゅうぎゅうにするように、バンが二台停車する。

驚いて出てきた50代くらいの夫婦に、ムーサが運転席から降りて言葉をかける。


「いきなりすまない、父さん、母さん」

「ムーサ!あんた久しぶりに帰ってきたと思ったら、いったいこれは…」


そこで唯斗もスライド扉を開いて外に出る。乾いた土の上に降り立つと、ムーサとよく似た両親に挨拶をした。


「初めまして、日本国大使館の外交官、雨宮です。名前は唯斗と言います。ムーサに頼んで、敵に見つからないよう、ここを通って陸軍基地へ向かっているところです。突然お邪魔してしまって申し訳ありません」


プラ語で挨拶をしたことに驚き、恐らくアジア人を見ること自体もレアなのか、二人とも目を白黒させていた。


「え、ええと、ムーサ、この方は…」

「俺が警備員として勤めている大使館の代表だ。この国で日本を代表する立場の方だ」

「なっ、そ、そんな偉い人を…!?」


どうやら外交官というものをよく分かっていないようで、ムーサも少し盛って紹介したものだから、両親は大統領か何かだと思っているような狼狽ぶりだった。


「この国で言えばただの役人ですよ。ムーサ、ここで少し様子を窺うのか?」

「はい。30分もすれば、追いつかれる前に基地へ到達できるくらいには撒けるでしょう」


ムーサは実家で匿ってくれるらしい。唯斗はリチャードや車内の人間にもそう伝え、全員を車から降ろす。エンジンを切るため、熱が籠って危険だからだ。
唯斗はもちろん、マリーと子供たち以外は初めてスラムにやってきたようで、少し不安そうにしていた。ウスマンは気にせず両親に挨拶していた。


「リチャード、ムーサは30分くらいここで時間を潰せば撒けるって」

「俺も同意だな。国道82号とアカバン通りの間あたりから銃声が聞こえる。まだ近くを徘徊してるんだろう。ただ、基地周辺と国道沿いは政府軍の影響下だ。30分もすれば、自分たちの拠点に戻るはずだ」


やはり軍人、ムーサもリチャードも、唯斗の耳には聞こえていなかった音を聞き取り、敵の位置を把握していた。
ムーサの両親は、21人もの大人数を家の中へと招き入れる。

生活感あふれるリビングは、床こそアスファルトだが土で汚れており、ソファーや椅子のクッションもくたびれている。あちこちに衣服が適当に干してあった。ムーサたち子供らが巣立ったからか、かつては大家族だったのだろう家は二人暮らしには広すぎるように見えた。

女性や子供を椅子や床に敷いた敷物の上に座らせ、唯斗含む大人の男性たちは立っている。特に、ウスマンとリチャードは屋外の警戒をしていた。
ムーサは両親とともにキッチンの方に籠っており、かすかに母親のすすり泣く声が聞こえてくる。恐らく、日本に退避することを話したのだろう。すでに巣立った大勢の子供の1人とはいえ、日本はあまりに遠く、この国が崩壊の瀬戸際にあることもあって、その離別があまりに重いと理解している。

ここにいる全員、こうして両親や兄弟との別れを済ませてきたのだ。ただ逃げるだけの唯斗とは違う。彼らがこの国に残すものの大きさ、その不安は計り知れない。



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