サヘルの夜明け−79


久しぶりに飲んだな、と思っていると、背後からリチャードの「うおっ」という小さな呻き声が聞こえてきた。そちらを振り返ると、初めての味にリチャードが目をパチパチとさせていた。


「これ飲むの初めてか?」

「あぁ…すごいな、苦さと甘さのボクシングみたいだ」

「西アフリカじゃメジャーなお茶だな。いきなり押し掛けた俺たちをもてなしてくれたんだ。この地域の、客人をもてなす儀礼みたいなものとして。この状況じゃ砂糖も安くはなかっただろうに、これだけの人数で用意してくれたんだよ」

「そうか…ありがとうご両親!とても美味しい!」


リチャードはすぐ、先ほども礼を述べていたが改めてムーサの両親に感謝する。二人ともにっこり微笑んだ。

しばらくお茶を飲みながら、ムーサの両親とムーサの子供、すなわち孫たちとの会話にひと段落がついたのを見計らって、唯斗はムーサの両親のところに寄る。


「改めまして、この度は匿っていただきありがとうございます。こんなおもてなしまで」

「いいんですよ、息子の上司だもの」

「…今回こうしてご協力をいただいたので、我が国は、あなたたちも日本に招くことが可能です。誰を退避させられるのか、私に一任されているためです」


唯斗が言うと、隣で聞いていたムーサが驚く。両親も驚いていたが、顔を見合わせて、すぐに首を横に振った。そして母親の方が答える。


「…ありがとう。でもいいんです。いきなり日本なんて行けないし、ここでの暮らしから離れたくないし…それに、このスラムはいつも変わりません」

「変わらない?」

「はい。どの大統領も、このスラムには何もしなかった。良いことも悪いこともです。周辺国がどうなっても、景気がどうなっても、スラムの暮らしは変わらない。みんな貧しいし、病気も多いし、長生きなんてとてもできないけれど…それでも、私たちはここで幸せなんです」


父親が母親の肩に手を置いて、母親もそれに自身の手を重ねる。


「ここでの生き方しか知らない私たちに、外国で暮らすことはできません。でも、息子や孫たちには未来がある。日本に行くなら若い世代だけでいいんです。それに、政府がなくなってしまっても、どんな武装勢力がラヴァルヴィルを支配しても、きっとスラムのことはどうでもいいでしょう。誰も私たちを気にしない。だから、私たちも政府や組織を気にしない。それでいいんです」


もちろん、そうならないことだってある。アフガニスタンなどがそうだ。とはいえ、この巨大なスラムで権威を誇示したところで無駄であり、確かに彼女の言う通り、どの武装組織にもここは気にかけられないだろう。

そろそろ時間だ。唯斗は、ポケットからドル札を取り出す。この国では教師の年収に匹敵する金額であるが、日本であればサラリーマンの平均的な一カ月の手取りの半分程度にしかならない。


「…日本国政府を代表して感謝を申し上げます。どうかご無事で」

「あなたと、あなたたちに、神がともにあらんことを。ムーサと孫たちを頼みます」


母親とお金を渡しながら握手をする。ムーサは一瞬目元を拭い、父親も同じような仕草で目をこすった。

時刻は13時40分、リチャードに確認を取ると、頷いて「大丈夫だ」と回答をもらう。


「よし、それじゃあ出発だ」


全員次々とバンに乗り込んでいく。最後に、ムーサの両親はマリー、孫たち、そしてムーサを抱きしめた。
全員が乗ったところで、先に2台目のウマルの車両が路地に出てバックし、1台目となる唯斗たちのバンが次に出る。ムーサは見送る両親に手を振ってから、車を発進させた。

狭いスラムのため速度は遅く、バックミラーにはこちらを見送る両親の姿があった。


「…ありがとうムーサ、助かった」

「いえ。こちらこそ、あんなにたくさんのお金をいただきありがとうございます。子供の食事代などもそうでしたが、唯斗さんはいつも、ただの警備員でしかないというのに、気にかけてくださいましたね」

「俺にできることなんてたかが知れてる。銃を撃てるわけでも、戦争を止められるわけもでもない。せめてできることをして、無力感や罪悪感を誤魔化したいだけなのかもしれない」

「あなたが優しいから、無力感や罪悪感を覚えるのでは?」


ムーサに言われて少し驚く。それには、助手席のリチャードが頷いた。


「そうだな、俺もそう思うぞ!ムーサはもっと、根本的な唯斗の優しさや誠実さのことを言っているんだ」

「…そっか。自分じゃあんま分からねぇけど、そういうことなら嬉しい」

「そういうことですよ」


ムーサも同意を示す。現地人に優しくするのは橋本の教えで、ただそれを実践しているだけのつもりだった。
だが、そこには確かに、唯斗の感情もあったのだ。



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