サヘルの夜明け−84
そういえばリチャードはどの部屋にいるのだろう、と思って自衛官に指定されていた部屋に入ると、そこにはリチャードがベッドに腰かけていた。ツインルームのベッドの片方に座っており、入ってきた唯斗を見て表情を崩す。
「お疲れ様、唯斗」
「あれ、同じ部屋だったのか」
「あぁ、宿舎のキャパシティー超えてるからってことで、唯斗も誰かと同室にするしかなかったらしい。それで、誰と一緒にするべきか聞かれたから俺が名乗り出て一緒にしてもらえた」
どうやらリチャードが自ら同室になるよう手配してくれたらしい。
いや、「手配してくれた」と自然に思ってしまったあたり、唯斗が自分でそれを無意識に望んでいたことに気づき苦笑する。
「…そっか。もうシャワーしたか?ガソリンスタンドの洗車スペースに入りたいくらいの気分だ」
「先に使わてもらったぞ。俺が洗おうか?」
「外務省にシャワー介助費用請求されたら困るからいい」
そうやって軽口を互いに叩いてから、唯斗はようやく温かいシャワーを浴びる。バスタブなどはない簡易なシャワー室だが、さすが施設整備のプロフェッショナルとしてPKOでも知られる自衛隊の基地だ、極めて清潔で使いやすかった。水回りで日本に勝てる国などない。
歯磨きまでシャワー室でまとめて行い、清潔でいい匂いのするバスタオルで体を拭き、持ってきていた寝巻用のジャージとTシャツを着る。下着はありがたいことに自衛隊からアメニティとして支給されていた。
ドライヤーもしてパウダールームを出ると、リチャードが立ち上がる。
「寝る支度はできたか?」
「できたけど…」
いったいなんの質問だろうか、と思っていると、リチャードは突然、正面から唯斗を抱きしめた。同じシャンプーの匂いが香り、唯斗よりずっと温かい体温の硬い体に包まれる。驚いて固まると、リチャードは唯斗の耳元で囁いた。
「…よく頑張った。ここまでずっと、本当に、君はすごいことを成し遂げたんだ」
その真摯な言葉を聞いた瞬間、先ほど加奈子に言われたこともあり、唯斗はまったく無意識に口を開いていた。
「……つかれた、」
「うん」
「…しんどかった、きつかった」
「そうだな」
「…ずっと、つらかった。1人で助けないといけない数があまりに多くて、大使の代わりになんてなれるわけもなくて、どんどん見知った街が変わっていくのが不安だった」
「あぁ」
言葉がどんどん出てくる。思考を通り過ぎて心から直接言葉が出てくるようだった。そして、言葉が口から出てくるのに合わせて、どんどん感情そのものがあふれ出してきた。それは目元から水滴となって零れ落ち、リチャードの肩に落ちていく。
「怖かった、ずっと、怖かったんだ、俺が死ぬのはいいけど、加奈子さんたちや、職員たちや、邦人たちが死ぬことが、俺が死ぬことで彼らが逃げられなくなることが、ずっと、ずっと…ッ!」
「人の恐怖は大事なものを失う不安から来る。それは唯斗にとって、自分の命ではなく誰かの命だったんだな」
後頭部を撫でられて、唯斗はそのままリチャードの肩に顔を埋める。溢れる涙は直接リチャードのTシャツに吸い込まれていく。
「それでも俺は、たくさんの命を奪ってここにいる、俺が手を下してなくても、俺の許可と俺の責任のもと、たくさんの人を殺させた…っ!救えなかったヤツだっていた、そういうことに慣れ始めてた、頭から直接飛び出る赤い血すら…!俺は在外公館の人間で、日本を代表する立場で、日本とピナルエサヘルをつなぐ仕事をしていたのに、あんなに呆気なく、自分の手を汚さずに、ほかの命より邦人たちの命を優先させたんだ…!!」
たくさんの遺体がフラッシュバックする。大使館を襲撃した強盗、リチャードと掴み合い唯斗が脅迫した男や退避の道中で殺害したDASAK連合の兵士たち、マリック、そして橋本と倉石。
道端に無造作に捨てられた遺体、大切な人の変わり果てた姿に泣き叫ぶ人々。唯斗の指示や責任のもとで殺された人々にも、同じように彼らの死を人生の終わりのように悲しむ人々がいたはずなのだ。
彼らが死んだのは唯斗のせいではない。しかし唯斗には彼らを死に追いやる行為に対する責任があった。それは、大使館の人々を守るための行動を許可する唯斗の責任である。
唯斗の罪ではない。だが、唯斗の責だ。
疲労も、苦しさも、恐怖も、悲しみも、そして人を殺めることになった責任と無残な死の数々も、必死だったこの1週間は強く感じていなかった。やるべきことに悩殺され、自然と感情をセーブしていたのだと思う。
こうしてジブチの安全な場所に退避し、何より安心するリチャードの腕の中にいることで、それらが一気にやってきたのだ。
泣く、というより感情が壊れて涙が止まらない、という状態になっている唯斗に対して、リチャードは優しく、しかしさらに強く抱きしめる。
「それなら、その責任は俺も背負おう」
「っ、」
そして意志の強い声で述べた言葉に、唯斗は思わず少し体を離して至近距離からリチャードの顔を見上げる。その端正な顔は、いつか見たものと同じ、いやそれ以上に、深く深く奥がまったく見えないような、底知れない愛に満ちた笑みを浮かべていた。