サヘルの夜明け−85


「外交官としての責任、というのは外務省の組織の中で果たされるものだ。だが、唯斗の言う責任は道義的なもの。形はないし、責任を果たす相手は国や組織じゃない。それなら、俺にも背負えるものだろう?」

「な…っ、でもお前はそれが仕事じゃ…」

「そうだ。護衛対象を守るためなら平気で人を殺す、それが俺の仕事だ。俺は今まで何人も殺してきたぞ?たとえ、ろくでもない護衛対象であっても、害をなす人間の方が正しそうに見えていても、それでも仕事のためなら殺したさ。でも唯斗は、正しく人を守り、正しく殺しという手段を使った」


リチャードは仄暗い笑みとともに、そっと唯斗の頬を指で撫でる。そうだ、この男は、人道的配慮よりも唯斗の命を簡単に優先してきた。常人とはもともと価値観が違うのだ。
自分よりも遥かに強い感情に触れたからか、自然と涙は止まっていた。頬に残った水滴を拭ったリチャードの節くれだった無骨な指に止められた、といってもいい。


「必要なら人を殺す俺からすれば、確かに唯斗の、顔も名前も知らない誰かの死を悼む心も、危害を加えてきた相手であるにも関わらずその死を忌避する心も、弱さと言えるかもしれない。でもその優しい弱さが、唯斗の強さの元になっている。そしてその強さが、俺を救ってくれた。天使も神すらも見放すだろう俺のことを、救ってくれる存在がいるのだと教えてくれた。それも一度ならず二度までも。恐怖に震え、こうしてすべて事が終われば動揺してしまうのに、俺のために立ち向かってくれた」

「それは…俺にとってリチャードが必要な存在だったから、って見方もできるだろ」

「俺を必要とした理由が邦人たちを守るためだったんだから、同じことだ。それに、ただの打算じゃないってことは、唯斗の誠実さでよく理解してる。父の死をまっすぐ聡太に伝えたこと、対立する人々に『分かり合えなくても銃口を向けない平和』を望んだこと、どんな相手にも対等に接していたこと。皆、唯斗のそういうところを理解していたから協力した。二人で逃げているときに出会った男もそうだ」


ずっと打算だけで生きていると思っていた。家族も知らないような、心の機微の乏しい人間だと自分のことを思っていた。
だがそうではないのだと、大使館の人々が、出会った人々が、そしてリチャードが伝えてくれた。それに、救われた。


「俺は、唯斗のそんなところを愛してる。だから、唯斗に責があるというのなら、俺も一緒に背負いたい」


そしてついに、リチャードはその言葉を口にした。出会った日からずっと言わなかった、直接的な言葉だ。必死で働く唯斗に配慮して言わずにいてくれていた感情を伝えられ、唯斗は、うすうす理解していながら見ないようにしていた自分の中のそれも、同じ形をしているとはっきり自覚した。

唯斗はリチャードの首筋に鼻先を寄せるようにして深く抱き着くと、広い背中に手を回す。


「…俺はずっと1人だった。家族の愛なんて知らなかったし、恋人はおろか友人だってまともにいなかった。外交官になったのも給与のためと日本以外で働きたかったからってだけ。でもリチャードに出会って初めて、俺は1人が嫌だと思った。慣れているはずなのに、リチャードのいない寝室が嫌だった。俺には恋愛とかそういうの、よく分からない。それでも…」


唯斗はそこで、顔を上げて少し背伸びをし、リチャードの唇に自身のそれをそっと重ねた。ただ触れるだけのものだったが、唯斗にとってはそれで充分、感情がよく分かる。


「…うん、これが『愛』だって、そう思える」


唯斗が言い終えた瞬間、リチャードは思い切り唯斗の肩に手を回して抱き込み、リチャードの方から再び唇を重ねた。今度はより深く、長く、何度もキスされる。
唇が離れても、リチャードの顔はすぐ近くにあり、その表情は如実に感情を伝えていた。相変わらず底知れない深さがあったが、今度はそれがどういうものがすぐ読み取れる。


「唯斗…っ!君が愛しい、本当に愛しく思ってる。この世で誰よりも君を守りたい。誰のことも特別ではないからこそ容赦なく人を殺められた俺が、初めて特別だと、出会った瞬間からそう思っていた。君のことを知って、それは強くなった。愛してる、唯斗」

「俺も、俺もだよ、リチャード。ピナルエサヘルからだけじゃなくて、俺を孤独そのものから助け出してくれた。初めて、一緒にいたいと思える相手に出会えたんだ」


肩口に顎を乗せるようにして頭を預けると、リチャードも唯斗の頭にすり寄る。

自分の中に芽生えた愛を自覚した。それはとっくに大きく成長していて、もはや唯斗は、リチャードのいない明日に怖さすら感じていた。
しかし、それを受け入れなければならない。

リチャードは英国人であり、明日はジブチ空港から民間機で英国に帰国することになっていた。
どうあっても二人は、明日で離別する。それが永遠のものとなるのかどうか、まだ分かっていなかった。

一番近い距離に感じたからこそ、唯斗はその不安も急に大きくなり、ぎゅっと深く抱き着いてから尋ねた。


「…俺の責任を一緒に背負う、なんて言ってたけどさ」

「あぁ、言ったな。嫌だと言っても勝手に背負うぞ」

「嫌とは言わねぇけど…具体的に、どうすんの」



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