サヘルの夜明け−86
これで素直に「離れたくない」と言えればよかったが、そんなに自分の感情をまっすぐ伝えられるなら色んなことがもっとうまくやれていた。
ちょっとずるい聞き方だっただろうか、と思っていると、リチャードは急に唯斗を抱き上げ、ベッドに優しく下ろした。突然のことに驚いていると、素早くリチャードも横になり、またも腕枕の姿勢になった。この姿勢になるのは3度目だ。
「いきなりなんだよ」
「立ちっぱなしも疲れるだろう?」
そう言って後頭部を撫でてきたため、唯斗は体を寄せ、胸板に額をくっつける。
「…うーん、唯斗はやっぱり、めちゃくちゃ可愛いな!」
「…な、はあっ!?」
この男に可愛い、と言われたのは初めてではないような気もするが、ここまで直接的に言われたのは初めてだ。関係性が変わっていることもあってダイレクトに響き、つい顔を離して頭上を見上げたが、そこにはリチャードが甘く蕩けるような笑みを浮かべていた。美形なリチャードにそういう表情をされると、さすがの唯斗も顔に熱が上がる。
「日本人はあまり感情を表に出さない、というのは知っているが、唯斗はそれに加えて人間関係の経験値のなさもある。こういうことに不慣れで、不安な気持ちを伝える方法が分からなくて、それでも誠実な気質だからちゃんと言葉にはしようとして、だけどちょっとした態度に感情が滲む。この7日間、唯斗を見ていて思ったことだ。うん、さすがに可愛すぎるな!」
「っ、…ッ!」
つらつらと勝手に分析されたコメントに、さらに恥ずかしさが募る。正直、図星だ。何も言い返せなくて精一杯睨むと、リチャードはにっこりと笑った。
「あんまり可愛いと我慢できなくなるからな」
「…さすがに今日は無理だぞ」
「分かってるさ!でも俺は知っての通り強引な性格だ。本当に我慢できなくなったら、手籠めにして襲うぞ!」
本当に知っての通りのことだ。そしてどうやら、リチャードはちゃんと唯斗のことをそういう目で見ているらしい。恋人関係に必ずしも体の関係がなくてもいいとは思うが、求められることは純粋に嬉しい。唯斗が抱かれる側なのは分かり切っていたため今更である。
「…今日じゃない、いつか別のときに、手ぇ出してくれんの」
さすがに恥ずかしい質問であるため、唯斗は再びリチャードの胸元に顔を隠してそう聞いてみた。先ほどの唯斗の質問に答えがまだないことに、しびれを切らした部分もある。
リチャードはそれを見て小さく息を飲んだ。
「…っ、今この瞬間じゃないことはわりと奇跡だからな?」
そして低く唸るようにそう答える。ぐっと抱きしめられ、その力強さに、本当にギリギリのところで我慢しているのだと察した。あまり余計なことはもう言わない方が良さそうだ。
リチャードが我慢したのは、唯斗の2つの同種の質問、つまりこれからのことについて、きちんと答えるべきだと考えているからだろう。
リチャードは少し息を吐き出して力を抜いてから、ようやく答えを口にした。
「一緒に責任を負うとは具体的にどういうことか、と聞いたな。答えはシンプルだ、一緒にいる。一緒に生きる。そしていつか君に手を出すかという質問だが、これもシンプルだ。もちろん、必ず」
「…そっか」
「それをどう実現するかは、俺と唯斗、それぞれで今後のことを考えなきゃいけない。何せ、俺も唯斗も、今の職業のままじゃ一緒に生きることは不可能だ」
傭兵と外交官という立場の違いは、二人が様々な国を転々とする仕事である以上、奇跡がない限り交わらない。今回の出会いだって奇跡的な偶然だった。
つまり、二人とも今の仕事を辞めて、どうやって生活していくかを考えなければならない、ということだ。元外交官である唯斗は引く手あまただろうが、傭兵上がりとなると職業の選択範囲は狭い。
例えば、唯斗はロンドンの企業に、リチャードはロンドン市警に転職する、というような形だろう。そのようなことをするには、準備も下調べも必要だ。
「英国と日本は遠い。それでも、ラヴァルヴィルのオフィスの地下駐車場で、蛇口で脅した外交官と出会えた奇跡に比べればずっと近い」
「…そうだな。油断して丸腰の傭兵に運よくたまたま出くわしたことに比べれば、どうってことないか」
またそうやって軽口を言い合い、二人はそろって小さく笑う。
驚くほど急に唯斗の不安は晴れていき、きっと大丈夫だ、と思えるようになっていた。
「それぞれ帰国して落ち着いたら、時間を取って話し合おう。俺たちの人生について」
「分かった」
「よし。じゃあ寝よう、あと3時間くらいで起きないとだしな」
「ん。おやすみ、リチャード」
「あぁ、おやすみ」
そうして唯斗は睡魔に身をゆだねる。もともとギリギリだった体は、すぐに眠る態勢に入っていた。
やはりリチャードの腕の中は、世界で一番安心する。この温もりを思い出すだけで、帰国しても寂しくないような気がした。