chapter. 5−5


西ラバルム帝国が国土を分割し、ガリア王国、ロタリンギア王国、ゲルマニア王国が建国されたとき、ガリア王国はヒスパニア半島を含む広範な領土を持っていた。
ラウルの知る地図で言えば、ポルトガル、スペイン、フランスの西側3分の2といった範囲にあたる。

しかし、成立直後からブリタニアが海を渡ってガリアに侵攻を開始。国土の北西沿岸を瞬く間に奪い、ブルトン公国が成立した。
また、このガリアの動揺に付け込んで、ポルトガルにあたる地域を中心とするルシタニア王国が成立すると、ブリタニアとルシタニアは同盟。ともにガリアを追い詰めた。

さらに、ピレネー山脈にあたるピレネア山脈を境にヒスパニア王国も成立し、ブリタニア、ヒスパニア、ルシタニアの3王国連合によってガリアは亡国の危機に陥った。
王都ルテティアを含む、北東部の4分の1だけを支配する小国にまで追い詰められたのだ。このとき、ロタリンギア王国はブリタニアのガリア領土と国境を接していた。

しかし、このときのロタリンギア王ルータール3世は、ゲルマニア王国だけでなく、ウェスティアからさらにオスティアまで含め、大陸部の大半の国と協力を取り付け、大陸国家をまとめあげてブリタニアに対抗した。
「勇猛王」と呼ばれたこの王による大陸連合軍はブリタニアを追い詰め、ガリア西部まで撤退させる。このときから、ロタリンギアのガリア派兵が行われるようになった。

その後、ルータール3世のもとで停戦協定が成立し、いったん戦争が終結。
ここまでの130年にわたる戦争を「ブリタニア戦争」と呼ぶ。


それから200年ほど停戦したあと、再び電撃的にブリタニアは再侵攻を開始。
再度領土は奪われたが、このときのロタリンギア王ルータール7世はもはや指導力を発揮することはできず、ガリアの援軍は弱小のロタリンギア兵のみとなっていた。

しかし、そんな危機的状況で即位したガリア王マルテルは、通称「吶喊王」とも呼ばれる猪突猛進ぶりを発揮し、自らの魔法を軸に戦場に乗り込み、自軍とともに暴れまわった。
もはやロタリンギア兵は補給要因程度にしかなっておらず、ガリアは自らの力でアキタニアからブルトンまですべてのブリタニア支配地域を解放。

マルテルは戦争で役に立たなかったことへの難癖のようにしてロタリンギア王ルータール8世、ラウルの父王を脅して領土を割譲させ、マリーやコルデーがいたブルグンディア公国やプロウィンキア公国などを奪っていった。

停戦期間ののちに新たに始まったこの戦争を「ガリア戦争」と呼び、終結したのは1272年、今から4年前のことになる。


「…僕が即位したのは1268年、18歳のときだ。そのころには、折からの不作と重なる戦費によって国庫は火の車、北部一帯が飢饉に陥っていた。それでも、ガリアに残されたブリタニア人への虐殺が起こる前に、なんとか戦況を長引かせて時間を稼ぐ必要があった」

「ガリアに残された民を守るための時間稼ぎが、本土の民の困窮を招く。めちゃくちゃ苦しいよな」


王の立場でしか共感できないジレンマだ。アーサーはラウルを抱きしめる力を強くする。

アーサーが即位した1268年から終戦する1272年までの4年間は、もはやガリアとの戦争はガリアの自国民をいかに避難させ、終戦の条件を緩められるかだった。
歴代の王から押し付けられたガリアを巡る戦争は、アーサーに最も負担を強いたのだ。

終戦時、アーサーはマルテルとの交渉でなんとか隷属的な内容を避けることこそできたが、ガリアに残された棄民をどうすることもできなかった。
このとき、カレドニア公領全域と、ヘン=オグレッジ公領の北部、スコットランドで言えばローランドにあたる地域にあったグォートディン伯領、ローディアン伯領、イスラードクラッド伯領では深刻な飢饉が起こっており、人口が激減しつつあった。このままでは、ブリタニア島の北側一帯から人が消えるのではというほどだったという。
その対処に追われただけでなく、ノルディアからはバイキングが度々押し寄せたため、その対応も必要であり、足りない財源の工面や破綻した経済の回復など課題が山積みだったそうだ。


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