chapter. 1−2
ラウル・ラティウム=トレヴェリス、肩書きはロタリンギア王。それが「今の」名前であることにはもう慣れた。それでもかつての名前を忘れていないあたり、やはり名前とは特別なものなのだと実感する。
かつてラウルは、別の世界で暮らしていた。
今でも何を言っているんだ自分は、と思ってしまうくらいには信じがたいが、かれこれ16年が過ぎたため、さすがにもう事実なのだと受け止めている。
元の世界は、この世界よりも遥かに未来だったようで、文明としては概ね1000年程度先の世界なのだろうと考えている。
その世界にいたときの名前は雨宮唯斗、どこにでもいる日本の大学生だったが、留学先のパリで事故に遭い、気が付いたらここにいた。
事故に遭った瞬間のことははっきりと覚えている。原因は分からないものの、大きなトラックが歩道に突っ込んできて、避ける暇もなく体に衝撃が走った。痛みはなく、とてつもない衝撃だけだった。
そして目が覚めると、新生児になっていたのである。
あぁ、これは日本の漫画などで流行している異世界転生というやつでは、と瞬時に理解したラウルだったが、そんな非現実的なことがあり得るのかと、しばらく夢と現実とが区別がつかなかった。
体は赤ちゃんである以上、眠気も空腹も強烈な勢いで訪れるため、眠っているのか起きているのかも分からないほど混乱していたが、数日もすれば理解した。
いや、諦めた、と言ってもいい。
これが厳然たる現実であり、ラウルは別の世界の人間として生まれ変わったのだと理解したのだ。
すぐに別世界だと気づけたのは、赤子ながらに視界に映った世界の様子が現代のものではなかったからであり、それを理解できたのはラウルが元の世界では史学科にいたからである。
調度品などから文明が欧州中世中葉のものだと判断し、一方で会話に出てくる地名の大半に聞き覚えがなかったことから、世界線が違うのだと考えた。
それはいくらか大きくなり、教育が始まってから正解だったと分かった。
また、成長する過程で明らかになった銀髪に薄い青の瞳という己の見た目も、日本人だった頃とはかけ離れていた。
さらにその後、決定的な差異に直面する。
「魔法」の存在だ。
もうここまで来るとお約束すぎて笑えてくる。
生まれ変わったら王族だったという時点で笑い話だというのに、この世界の人間は魔法を使えるというのだ。
ここにきてやはり夢なのではないかと思ったが、これまで何度も、固いテーブルや椅子にぶつかって痛い思いをしているため、現実だと否応なしに認識させられている。
いずれにせよ、元の世界に戻る方法は分からず、なんなら戻る意欲すらなかったラウルは、このままラウル・ラティウム=トレヴェリスとして生きていくことを視野に入れて、この世界と魔法のことを学んでいったのである。
***
「まぁ陛下、お兄様、こんなところにいらしたんですか」
カストロとしばらく窓の外を見ながら世間話に興じていると、後ろから軽やかな声がかけられた。振り返れば、カストロと同じく華やかな金髪に青銅の髪飾りをつけた少女、ポルクスがいた。
カストロの双子の妹であり、剣術に優れた人物だ。
服装はブレーを履いていないこと以外はカストロと同じ白黒のものだが、他の女性たちと違い、裾はくるぶし丈だ。カストロもラウルよりは丈が少しだけ短かった。
ラウルはカストロに肩を抱かれままポルクスに応じる。
「ポルクス、訓練は終わったのか?」
「ええ陛下、本日も恙なく。お兄様は伝令にしては少々お時間がかかり過ぎでは?」
「言うなポルクス、ラウルがこの窓からたそがれていたのだ、寄り添わずしてなんとする。それからポルクス、ここは俺とお前、ラウルの三人だけだ」
「失礼いたしました、ラウル様。何かご不安なことでも?東ラバルム帝国が滅びた、といったところでしょうか」
聡いポルクスは、カストロに窘められてラウルの呼び方を変えつつ、正解を口にした。
双子に対しては、人前でなければ気安く接するように言い含めているものの、ポルクスは元の喋り方が常に丁寧であり、兄に対しても敬語を崩さないため、これで良い。
「そうなんだ、ポルクス。アンティオキアが陥落したとカストロに伝えられたところだ。これでいよいよ、パールスのルメリア半島侵攻も現実味を帯びてくる」
「フン、そうなればゲルマニアもこちらにかかずらう場合ではなくなるだろう」
「しかし、だからこそロタリンギアを固めておこうとするのでは?ゲルマニアの最大の強さは兵の数、二方面展開は難しいことではありません」
「カストロもポルクスもその通りだ。でも、すぐにゲルマニアもことは起こさないし、パールスもしばらくは占領地政策に係り切りになる。フリギアとグラエキアの戦争も終わってないしな」
不安げにするポルクスと、分かっていながらも高を括る態度を維持するカストロにラウルがそう言えば、二人とも表情を曇らせる。
グラエキアは二人の故郷でもあるからだ。
「…いずれにせよ、とにかく今はレッツェ勅令の完遂と制度改革が先決だ。少し余裕が出れば、東方政策も検討する。引き続き、頼むぞ。俺が信じられる人間は少ないんだ」
「…当然だ。先ほど言った通り、いざとなれば俺がお前らを連れて亡命してやる」
「それも素敵ですね、兄様。エトルリアで牧歌的な生活を送るのも良いでしょう」
「……ふは、さすが双子だな。発想が同じだ」
カストロとまったく同じことを提案したポルクスに思わず笑うと、カストロも小さく笑ってラウルの頭を撫で、ポルクスも微笑んでラウルの手を取った。
最初は打算でしかなかったこの二人との生活も、今ではすっかり、ラウルの支えになっていた。