愛しき過去にさよならを−15


つつがなく大森駅での作業も済ませると、唯斗は今度はアーサーに抱えられて高円寺へと向かった。再び15分ほどの移動を終えると、高円寺では特に魔術師との会敵もなく、エミヤと合流して環七の中央線高架下での術式解除を完了した。

立香たちもうまくいったようで、これで二つの拡張術式はどちらも無力化されたことになる。

夕暮れになりつつある空の下、唯斗はアーサーとオジマンディアス、マーリンを先に新宿に帰して、エミヤと二人きりになった。
目的は、高円寺から吉祥寺に移動して、バシルたちの様子を見に行くためだ。

魔術師たちが言っていた通り、バシルが関わっているのだとすれば、拡張術式が解除されたことに気づいているはずだからである。

そうして、再び唯斗は実家の近くにやってきた。


「…無理して接触する必要はないのだからな」

「分かってる。様子見だ」


夕方の長い影が伸びる住宅街の中、隣を歩くエミヤは気遣わしげに言ってくれた。責任感を感じているのでは、と推測しているのだろう。実際のところ、唯斗にとってもこれが責任感なのか分からない。

なぜ、こうして実家の門の近くまで歩いてきたのか、自分でもあまりよく分かっていなかった。もちろん、何か異常があれば、という警戒も確かだ。

そうして、実家の長い塀の横を歩いているときだった。


「あら、また会ったわね」

「っ、」


曲がり角から姿を現したのは、写真でしか見たことがなかった母、美紀子である。今日は一人のようで、手には買い物袋を抱えていた。


「また迷子かしら?」

「あ……いえ、えっと、近くの民泊に宿泊してるので…」

「あぁ、最近聞くようになった、あの。この辺りにもあるのね」


昨日はほとんど印象も残らないほど驚いて頭が真っ白になってしまっていたが、今回はなんとか会話になっている。美紀子はどうやらとても温厚な人のようで、おっとりとした様子だった。


「今日はあの黒髪の子と、金髪の王子様のような人はご一緒じゃないのね。格好いいお兄さんなのは変わらないけれど、日に焼けているのかしら?サーファーさん?」

「あいつらは買い物に行ってて。俺たちは先に民泊してるところに戻るんです。こっちはその、スポーツ選手で。そちらはお買い物帰りですか?旦那様は?」


なんとか、バシルの動向を探るくらいのことはしないと、本当に何をしに来たという話だ。
そこで自然に聞いてみると、美紀子はやはりおっとりと微笑む。


「夫は昨日からお屋敷の奥の部屋に閉じこもってるの。具合が悪いのかもしれないから、慌てて体に良いものを買ってきたのだけど…風邪かしら」

「…そう、ですか。急に冷えてきましたからね」


昨日から、というところに唯斗は引っかかる。昨日から魔術師がコンタクトを取り始めたのか、それとも、アーサーがサーヴァントであることに気づいて、唯斗たちが害成す存在だと警戒しているのか。どちらも可能性は高いが、いずれによせ、これでさらにバシルが魔術式に関わっている可能性が増してくる。

ここまで分かれば十分だ。唯斗はもう会話を切り上げようとしたが、ふと、本当に気が抜けたように、つい、聞いてしまった。


「……あの、」

「なにかしら?」

「…あなたは今、幸せですか」


エミヤは唯斗をちらりと見下ろす。いったい何を、といったところだろう。唯斗も、聞いてすぐに、さすがに不審者すぎると思ったが、美紀子は特に怪しむこともなく「そうねえ」と考え始める。むしろそこは警戒感を持って欲しい。


「幸せか、と聞かれれば、幸せです、と答えるわ。でもね…私は今も、11年も前になるけれど、初めての子を産んであげられなかったことを覚えてる。だから、その子のことを考えると、100%幸せじゃないかもしれないわね。あの子がいたら、4人家族だったら、なんて、今でも思うわ」

「ッ…、そう、ですか。すみません、変なことを聞いてしまって…それでは」

「ええ、さようなら」


気分を害したようでもなく、美紀子は微笑んで門に向かっていった。
11年前、唯斗が生まれるはずだった年だ。

自分がいない方が幸せな家庭なのだと思った。事実そうだろう。しかし、美紀子は今も、唯斗のことを忘れてなどいなかった。


「…マスター、今日は移動ばかりで疲れただろう。俺が担いでいく。迷彩だけ頼む」

「……ん、分かった。ありがとう」


かろうじてそれだけ言うと、エミヤは右腕一本で唯斗を抱き上げて抱える。唯斗はエミヤの右に抱えられ、その厚い肩に顔を埋めた。
すぐに空を切る風の音がし始めて、体に秋の乾いた風が吹き付ける。住宅街の上を、唯斗がかけた迷彩によって誰の目線も浴びないまま、エミヤは飛んで移動を続ける。

そんな中、エミヤは唯斗の耳元に、おもむろに呟いた。呟いたといっても、耳元で低く芯のある声だったため、よく聞こえた。


「あの警戒心のなさ、まさに君に通ずるものがあった。君は確かに、彼女の息子だな」

「っ、お、まえ、それは、ずるい…!」

「ふふ、すまない」


小さく笑うエミヤの声はひどく優しくて、目に滲んだものを、唯斗は赤い肩衣に染みこませるように顔を肩に押しつける。
だがそんなエミヤの言葉で初めて、唯斗は「父の妻」や「写真の中の人」から、「自分の母親」として、美紀子を認識したのだった。


240/314
prev next
back
表紙へ戻る