愛しき過去にさよならを−19


バシルは、ただ幸せな暮らしがしたかったらしい。たったそれだけのために、東京の900万人の命と、ロンドン中心部300万人の命を犠牲にして、神代から連綿と続く魔術体系を根底から破壊するというのだ。たとえ山手線の内側だけだとしても120万人は暮らす街だ、バシルの計画が実現すれば取り返しのつかないことになる。

立香も、あまりに犠牲の大きい計画に愕然として、バシルに声を荒げる。


「そんな自分勝手なことのために、何百万人もの人を犠牲にするのか!」

「お前たちに何が分かる!名門同士の子として、俺はいつも、利用されてきた。ただの道具だった!美紀子だけが、俺に普通の幸せを教えてくれた。俺を、人間にしてくれた。彼女のためなら、俺は何百万でも殺してやる!」


バシルもそれに応じて吠えた。本気の怒声に、唯斗は言葉を詰まらせる。

あぁ、この男も同じだったのだ。それに気づいて、唯斗は口を開けなくなってしまった。
所詮、魔術師などそんなものだ。親子の間に愛などない。誰からも愛されず、名門同士の勢力争いや魔術の権益争いに巻き込まれ、疲弊する中で、一般人だった美紀子に、バシルは救われた。
人間になれたバシルは、初めて、人としての普通の幸せを知った。それを、維持したいと願った。

それを邪魔する両家の人間を殺し、それによって魔術協会に目をつけられると魔術師たちも殺し、挙げ句の果てには魔術そのものを破綻させるために1000万人単位の死者を出す計画を立案した。

どうやって聖杯を手に入れてしまったのかは謎だが、正史においても、バシルは術式を盗むためにカルデアに就職し脱出する程度のことを成功させている。アニムスフィアを敵に回して何年も生き延びたのだ、その実力は極めて高い。聖杯を見つけ出すことも、この男になら不可能ではないだろう。

唯斗は言葉が継げなくなってしまったが、落ち着いて深呼吸する。サーヴァントたちは唯斗に任せてくれているようで黙っており、立香もこちらを窺っている。唯斗がけじめをつけなければならないのだ。

唯斗はバシルを正面から睨み付ける。


「…聖杯はどこだ。術式を無効化して聖杯を差し出すなら、あんたには手を出さないし、金輪際関わらない。要求を受け入れないなら、あんたを殺す」

「マスター、」


背後に立つアーサーが気遣わしげにするが、唯斗は首を横に振った。今、アーサーを見てしまうと心が揺らぐ。決して振り返ることはせず、まっすぐバシルだけを睨んだ。

バシルも、さすがにサーヴァントがこれだけいては勝ち目がないと分かっているようだ。火の手が上がる本邸に残された家族も心配だろう。バシルは迷っているようだったが、そこに、突然別の人物が現れた。


「やめて!その人に何もしないで!!」


そう叫んでバシルの前に立ったのは、美紀子だった。
父を庇う母の姿に、今度こそ唯斗は言葉が止まった。

どうやら屋敷を飛び出して、バシルを助けに来たらしい。バシルも目を見開いている。


「だ、だめだ美紀子、戻りなさい!それに一樹は!」

「魔術師の人が結界で守ってくれたわ。あなたが囲まれていたから飛び出してしまったの。お願い、この人は悪い人じゃないの。誤解されてしまう不器用なだけの男の人なの。あなたたちの要求は聞くから、だから、この人に何もしないで!」


美紀子ははっきりと、唯斗を敵視して精一杯睨み付けてきた。バシルを守ろうという意志の強い瞳に、唯斗はたじろぐ。両手を広げてバシルを庇う姿に、立香も拳を握りしめて、アーサーやサーヴァントたちも動けなくなってしまった。他ならぬ、唯斗の母親だと知っているからだ。

膠着状態になってしまった上に、魔術師でもなんでもない美紀子が戦場に立ってしまったことで、カルデアとしては話し合いを続けるほか打つ手がない。
ただ、美紀子は要求を呑むと言ったため、美紀子からもバシルを説得してもらえればむしろ事態を打破できるかもしれない。

立香も同じことに思い至ったのか、動けない唯斗に代わって、美紀子を説得しようとした。


しかし、その瞬間。

突然、本邸が轟音とともに爆発し、屋敷の屋根が吹き飛び、壁が崩れてガラスが割れ、木材の折れる音が無数に響く中、その粉塵から光線が飛んできた。

その光線は、まっすぐ美紀子を貫く。

鮮血が飛び散る様が、まるでスローモーションのように目に映った。


244/314
prev next
back
表紙へ戻る