愛しき過去にさよならを−21
離れに土足のまま上がると、畳の上に美紀子を横たえる。障子の向こうからは、炎上する本邸の赤い光が差し込んでいた。激しい戦闘音が聞こえてくる中で、唯斗はなんとか回復させようと美紀子の体を見渡したが、一目でそれは助からないレベルのものだと理解した。
すでに体を貫かれているため、大量の出血をしていた。これはもう、助からない。
息を飲んだ唯斗に、マーリンも察したのだろう。畳に立ったまま、こちらを見守るに留めていた。
すると、美紀子はうっすらと目を開く。唯斗の姿を見つけると、なぜか微笑んだ。
「…、……」
何を言えばいいのか分からず、美紀子のすぐ傍で座ったまま何も言えない唯斗に、美紀子は口を開く。
「……もしかしたら…おかしなことを言っているのかも……しれないけれど……あなたは、唯斗、かしら……?」
「っ、なんで、」
「ふふ、やっぱり…直感、かしら。不思議、魔術って、こんなことも、できるのね…」
なんと、美紀子は唯斗の正体を理解していた。いや、理解したのが最初からかは分からないが、それでも、美紀子は、気づいていながら何も言わなかった。
魔術のことは、何も知らないわけではないようだが、ほとんど知らないのだろう。だから、フィクションの魔法と同じくなんでもできると思っているようだ。
そして、肯定した唯斗に、美紀子は目を細めた。
「…いま、いくつ……?」
「…、18に、なった……」
「そう…あなたがいた世界では、わたしは、いないのよね…?きっと、わたしは、あなたを産むことを、選べたのね…バシルが、わたしが意識を失っている間に、わたしを優先したから…あなたを、諦めるしか、なかったの…でも、あの人を責めないで…お医者様も、母胎を優先するのが、普通と、言っていたもの……それでも、わたしは、あなたを、産んであげたかった………」
どうやら、この世界ではバシルが出産に立ち会っており、危機に瀕した母子のうち、美紀子を優先したらしい。それは普通のことだ。新生児と母胎、普通は母胎を優先する。
正史では、バシルは間に合わず、美紀子は独断で唯斗を産むことを決定した。そう、唯斗はフランスの伯母から聞いていた。
「お前なんて産むために母親は自らを犠牲にした、愚かな話よ」と繰り返し言っていたのだ。
そうしてバシルは心を壊した。美紀子を生き返らせて、美紀子が亡くなる理由となった唯斗を生け贄にしようとしたのだ。それは、自然な考えにも思えた。バシルにとって、美紀子はそれだけ大事な存在だった。
美紀子は、なんとか左手を挙げると、唯斗の頬をそっと撫でる。
「ふふ、格好良くなって…ずっと、考えてた……あなたは、小学校になるとき、どんなランドセルを選んだのかな、中学の制服、高校の制服、成人式、どんな姿だったのかな…一樹と4人で、遊園地に行ったり、動物園に行ったり……」
「……っ、」
「…反抗期にあの人と二人で悩んだり…進路の相談に乗ってあげたり…してあげたかった……あなたが、どんな素敵な大人になるのか、見届けたかった…」
ずっと、母は唯斗のことを考えてくれていた。たとえ唯斗を産むことがなかった世界であっても、唯斗がいる生活に思いを馳せていた。
写真の中でしか見たことがなかった母を母と認識することはできなくて、唯斗にとって他人でしかなかった女性だった。それでも、今この瞬間、この人はまさに唯斗の母なのだと知った。ずっと、母であってくれた。
唯斗の無事を、唯斗が生きることを、初めて願ってくれたのはアーサーだと思っていた。しかし、一番最初に、母が、それを願って、そして自らの命と引き換えにしてでも、唯斗を産んでくれたのだ。