愛しき過去にさよならを−22


唯斗の頬を撫でる美紀子の指は冷たくなりつつあり、もう腕を持ち上げる力もないようだった。
美紀子は唯斗を見上げて、唇を震わせる。


「……ごめんね、あなたはきっと、母親のいない人生を今まで歩んできたのよね…?ごめんね、ごめんね…!つらかったよね、寂しかったよね、他の子と違うのは、いやだったよね…?ひとりにして、ごめんね…母親なのに、一緒にいられなくて、ごめんなさい…!」

「そ、…んな…そんなこと、」


なんとか声を絞り出すが、最後まで言えず、ただ首を横に振ることしかできない。美紀子はそんな唯斗を見て、目に涙を浮かべながら微笑む。


「わがまま、かもしれないけれど…もしも良ければ、わたしのこと、母と呼んでくれないかしら…?」

「っ、いい、のか、そんな…」

「呼んで、ほしいの」


先ほど、美紀子が光線に貫かれ倒れたときすら、唯斗はそう呼ぶことが出来なかった。
今までの人生で、誰かをそう呼んだことなど一度もなかった。

自分がその言葉を口にする日が来ると、思ったこともなかったのだ。


「…か、あ…さん……」

「…うん、」


喉が震えて、うまく声が出せない。瞳に滲む水滴が次々と溢れてきて、喉が詰まってしまう。それでも、唯斗はどんどん体温が失われていく母の指先を掴んで、声を絞り出した。


「かあ、さん、かあさん、」


ぼろぼろと頬を伝う水滴が畳を濡らしていく。声は出しにくくなっていくが、それでも、唯斗は呼んだ。ずっと、呼びたかった名前だった。


「母さん、母さん、っ!、ぅっ、か、あさん、おかあさん……ッ!!」

「うん、うん、唯斗、ありがとう、唯斗…!」


そう呼ぶごとに涙が溢れて、母の目からも同じものが零れていく。喉が引き攣って、視界がぼやけたままになる。


「ありがとう、唯斗、こんな私のことを、母と呼んでくれて、ありがとう…!会いに来てくれて、ありがとう…生まれて来てくれて、ありがとう…」


母の指先から力が抜けていく。縋るように、唯斗はその手を強く握りしめた。


「生きていてくれて、ありがとう…!」


誰も、唯斗の存在を、唯斗が生きていることを認めてくれた人など、カルデアに来るまでいなかった。アーサー以外に、そんな人はいなかったと思っていた。

しかしそれは間違いだった。母はずっと、最初からずっと、唯斗が生きていくことを願いながら、唯斗をこの世界に産み落としてくれたのだ。

手から力は抜けて、唯斗の手からすり抜ける。母は最後に、かろうじて口を開く。


「………唯斗は…しあわせ……?」

「うん、うん、幸せだよ、俺、幸せだ、だから、ありがとう、産んでくれて、ありがとう、母さん…っ!!」

「よ、かっ…た……一樹を、おねがい……」


その言葉を最後に、目を閉じて、呼吸を止めた。
部屋には沈黙が落ちて、外からの戦闘音だけが響く。


「っ、うっ、ぅう…ッ、あ、あぁ…っ!」


その体に縋るように伏せると、外の爆発や衝撃波によって揺れる畳の振動を感じる。零れていく水滴で、その畳はすっかり色が変わっていた。
今まで、こんなに泣いたことはない。こんなに泣くほど、悲しみを感じたことはなかった。
悔しさに涙を滲ませたこと、苦しさに耐えられず涙を流したこと、別れを覚悟して涙を堪えきれなかったこと、嬉しさで思わず涙が出たことはあった。だが、これだけの悲しみは経験したことがなかった。

誰かとの永遠の別れに、これほど胸が締め付けられたことはなかったのだ。

数分間、そうしてから、もう動くことはないその体から手を離し、体を起こす。
安らかに、満足そうに目を閉じた顔を見て、唯斗は目元を乱暴に拭う。

まだ呼吸が乱れているため、深呼吸をして、制服型の礼装に水滴を染みこませて拭いていく。

そして、唯斗は立ち上がった。
まだ特異点は修復されていない。早く聖杯を止めなければならないし、何より、唯斗の弟である一樹のことを任されたのだ。


「…マーリン、ここを頼む」

「承知した。ここは今からアヴァロンだ。衝撃波のひとつすら届かせないとも」


そう言って、マーリンは唯斗の正面までやってくると、目元を指先でなぞった。引き攣ったような感覚が消えて、マーリンが唯斗の泣いた跡を消してくれたのだと理解する。


「さあ、行っておいで」

「…ありがとう」


マーリンに送り出され、唯斗は一瞬だけ、畳に横になる母を振り返ってから、障子を後ろ手に閉める。目の前に広がる惨状と、戦いを続けるサーヴァントたちに、もう一度深呼吸をして、一歩踏み出した。


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