愛しき過去にさよならを−26
カルデアに帰還してすぐ、唯斗はアーサーに連れられてアーサーの部屋にやってきた。唯斗の自室ですらなかったのは、その方が確実に、誰の邪魔も入らないからだ。
アーサーは部屋に入るなり、唯斗を抱き締める。
防具を消して、アーサーの温もりに包まれる。世界で一番安心する暖かさと匂いの中で、唯斗は、ようやく、堪えていたすべてが溢れていくのを感じる。
母と別れてから今に至るまで、戦いを続けるために覚悟を決めて、奮起して、そのまま立ち続けた唯斗は、こうしてようやく、アーサーの腕の中で限界を迎えることを許された。いや、自分にそれを許すことができた。
「アー、サー…」
「…よく頑張った。君は、本当に、よく頑張った…!」
「ふ、ぅっ、お、れ、わかってなかった、自分が、なくしたものが、どういうものだったのか、知らなかった…!!」
きっと唯斗は、本来、ランドセルの色を選んだり、卒業式でちょっと泣いたり、反抗期で親を困らせたり、部活で友人とぶつかったり、弟と喧嘩しながらも成長したり、受験で苦しんだり、進路に迷ったり、成人式で親を泣かせたり、就活で悩んだり、社会への不安を感じたりするような、そんな人生もあった。それを、バシルも美紀子も期待してくれていた。
自分が生まれながらに失ったものがそういうものだったのだと、知っていたようで知らなかったのだ。
そんな当たり前を願って涙を流した母の姿に、初めて、唯斗は失っていたものの尊さを知ったのである。
そして母は願いながら、唯斗の命をこの世に産み落とした。それが、そうした親としての幸せを自分が経験できなくなる選択だと分かっていながら。
最初からずっと、唯斗は、その命と幸せを、誰かに願われていた。その誰かとは、紛れもない母だった。
それを知らずに、唯斗は無為に15年間を過ごし、無気力に、感情を育むことなく生きてきた。いつ死んでもいいと思って、死んだように生きていた。
「母さんは、ああやって思ってくれたのに、俺の幸せを願って産んでくれたのに、俺は、俺は…っ、生きることも死ぬことも同じだって、どっちも意味はないって、そう思って、全部無駄にしてきたんだ…!」
「今は違う、今はちゃんとそうじゃないと、知っているだろう?」
アーサーに縋るように、肩に顔を埋めて罪の意識に震える。母がどんな思いで唯斗を産んで、その生涯を終えたか知った今、これまでの人生を、唯斗は後悔していた。
母に顔向けできるような生き方を、してこなかったのだ。
しかしアーサーは唯斗を抱き締めて、頭を撫でながら優しく諭す。
「君は命の価値を知った。生きる意味を理解した。生きる目的を見つけて、そしてここに立っている。人と向き合って、尊重して、共に歩いている。それはとても尊いことだ。これまでの15年間がなければ得られなかったことだ。すべてにちゃんと意味も意義もあった。自分を責めてはいけない。母君も言っていた、生きていてくれてありがとうと。君はちゃんと生きてきた。それだけで、君は素敵なんだよ」
「っ、アーサー、」
「この特異点がグランドオーダー中にずっと揺らぎとして観測され続けてきたのは、君が徐々に、カルデアにとって、藤丸君にとって、そして僕にとって、どんどん大切な存在になっていったからだ。君がなくてはならない存在になればなるほど、『雨宮唯斗がいない世界』というものの危険性が増した。グランドオーダーを終えて、さらに旅を続ける中で、僕や藤丸君にとっての君の存在はさらに確かなものとなった。必要な存在となったんだ。だから特異点と化した。それだけ、君は、みんなに必要とされる人になったんだ」
なぜここが特異点に、それも亜種並行世界になりかけるような場所になったのか。それは、唯斗の存在が、立香やアーサーにとって、引いてはカルデアとカルデアが救った世界にとって、なくてはならないものになっていったからだという。
「僕は君だから好きになった。君だから、ずっと隣にいたいと思った。君だから、永遠を誓いたいと願ったんだ。そんな君を育んだ過去も、僕には大切だよ」
「っ、うん、ぅっ、あり、がとう、アーサー…っ、俺、生まれてきて、生きてて良かった、幸せだ、それを母さんに言えた…っ!」
「うん、そうだね、唯斗…!」
アーサーの声も震えていて、唯斗に心から寄り添ってくれているのだと分かる。
きっと、家族のために涙を流すのはこれが最後だろう。アーサーと出会ってから今に至るまで、少しずつ育んできたものが、きちんと結実して、唯斗はここに、過去に別れを告げた。
それが自分にとって愛しく大切なものだと理解した上で、もう唯斗は、過去の無気力な人間ではないのだと、生きるために生きているのだと、心から理解したのだ。