沈殿する澱み−21


白み始めた空の下、凍てつく酸素の薄いヒマラヤ山脈の一角で、ヴリトラとの戦端が開かれた。
標高8000メートルのデスゾーンでこそないものの、かなり近いところまで来ている。空想樹との戦闘でこの高度にも慣れているが、当然、長居はしたくない場所だ。

アンデルセンとシェヘラザードによる泡のエンチャント付与によってダメージが通るようになり、ついにヴリトラを追い詰めることに成功。アルジュナ・オルタは最後のとどめを刺すべく、概念の剣を振るおうと、背後に浮かぶ色とりどりの光弾と鋼を輝かせたが、途中でその光を消した。


「何をしている!アルジュナ!」


カルナは声を上げて糺すが、唯斗は驚きはなかった。さすがにどういう判断をするかまでは五分五分だと思っていたものの、とはいえ、完全に悪だと断じない可能性を十分想定していたのだ。


「…違和感は、ありましたが。今こうして、壊劫の廻剣を振るうに当たって…邪悪を断つ刃がかの者の命に触れるに当たって、分かりました。であれば、私はマスターに伝えなければなりません。これは、邪悪にあらず」


アルジュナ・オルタの言葉に、カルナは驚愕を浮かべる。マシュも困惑したように通信から尋ねた。


『そうなのですか…?ヴリトラは邪竜とありますし、事実プレゼント配りを邪魔しているのは邪悪なのでは…?』

「古代の宗教は、自然現象にも神を見出した。いや、自然現象から神を見出した、と言ってもいいけど…一神教の世界では、神の定めた運命として自然が動いた結果だし、多神教の世界では、一つ一つの事象を司る存在がある。インドは後者だ。ヴリトラも、つまるところはそういう存在なんだよ」


インド神話に関する知識も欠落が見られるアルジュナ・オルタに代わり、唯斗が答える。

たとえば、乳海攪拌によって得られた霊薬・アムリタは、神々の策略によって、乳海攪拌に協力したアスラたちの手には渡らなかった。しかし、あるアスラだけはそれを手にしてしまい、アムリタを飲んでしまう。すかさず神は首を跳ねて、そのアスラは頭だけが不死となった。
猿の姿をしているともされるそのアスラは、同じ乳海攪拌から生まれた太陽の神や月の神を怒りから飲み込むが、首から下がないためすぐに神々は出てきてしまう。

このアスラによって太陽と月が飲み込まれる瞬間が、日食と月食の解釈だ。

このように、自然現象を説明するため、もしくは自然現象に神を感じたことで、多神教が成立する。古代文明の多くが多神教だったのも、神の存在を自然に感じていたからだろう。

ダ・ヴィンチもそれには納得したようだ。


『ただの自然現象だから一概に悪とは言えない、か。立香君、そこのところ、驚いていないようだけど、アルジュナあたりから聞いていたのかな?』

「うん、実はね」


そして、立香も事前にアルジュナから聞いていたらしい。
ヴリトラとは、干ばつをもたらす自然現象そのものであり、神と人に試練を与えるだけの存在である。そのため、試練を与え乗り越えさせる過程にこそ、ヴリトラの目的があるのだろう、という見立てだった。


『そ、それで先輩は、その答えが分かったのですか?』

「…ヴリトラ、あなたは…人や神が頑張るのを見るのが好きなんじゃないかな」


立香はヴリトラに問いかける。朝焼けが鮮明になりつつある空を背後にして、ヴリトラはにやりとする。


「き、ひ、ひ!その通りよ!わえは矮小な人間が、おごり高ぶる神々が、苦労し、努力し、泥にまみれ、泣き叫び、それでも立ち上がり、乗り越えねばならん障害を乗り越えるのを見るのが好きじゃ。鱗の裏までぞくぞくする!」


多少歪んだものではあるが、「神の試練」というどの神話にも存在する機構であるヴリトラは、そうやって人や神の努力する姿を見るのが好きなのだそうだ。
そのせいで苦しむこちらとしては堪ったものではないが、一方で、試練を乗り越えられない文明は衰退していくだけだ。人は、文明は、障害を乗り越えなければ成長することができないものだからだ。


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