閻魔亭繁盛記−9


ディルムッドの部屋を離れ、次の御膳を積んだカートを持って廊下を進み、メモで指定された部屋に向かう。
扉越しに声をかけると、「マスター?」という声が返ってくる。サンソンのものだ。


「旅館スタッフをしている、というのは本当だったんですね…」

「まぁな」


扉を開いて顔を出した白シャツ姿のサンソンは、唯斗の格好をしげしげと眺めてから微笑む。


「やはり故郷の装いは似合うものですね。素敵です。中へどうぞ」

「そりゃどうも」


ただの作業着だが、こういうところは外国人っぽさがある。
部屋に入って御膳を置き、食べ方や料理の種類などを軽く説明すると、座椅子に座ったサンソンは感心したようにした。


「これは、本当にきちんとしたオテルなのですね」

「そうらしい。閉鎖してた区画も修繕して解放してるし、このまま客が増えればなんとかなりそうだ。飲み物どうする?」

「そうですね…日本酒、というものも興味がありますが、まずは白でお願いします」

「分かった」


ワイングラスに白ワインを注いで、サンソンに手渡す。すると、サンソンは自分の左隣の畳をとんとん、と叩いた。


「よければ、一瞬だけマスターもご一緒してくれませんか。勤務中の飲酒は、日本では御法度かもしれませんが、我々にとってワインは水でしょう?」

「…しょうがないな」


口ではそう言いつつ、閻魔亭で出しているワインの味が気になっていたのも事実だ。唯斗はサンソンの隣に正座すると、自分用のグラスにも軽くワインを注ぐ。さすがに正規量ではなく、こっそり飲むだけに相応しい量だ。
唯斗がグラスを持ったのを確認すると、サンソンはグラスを近づけて乾杯の言葉を口にした。


「イェヘマ」

「っ、イェヘマ」


複数ある表現からこの言葉を選んだサンソンの考えはすぐに理解できて、こういうところは本当に彼らしい、と思いながら芳醇なワインを口に含んだ。

フランスで最も一般的な乾杯の言葉はSantéであり、サンテと発音する。
一方、今し方サンソンが選んだ言葉は、フランス語ではない。そもそもフランス語は、先ほどサンソンがホテルをオテルと言ったように、hが無声音となるため、ハ行の発音は存在しない。
イェヘマはYec’hed matと表記するが、これはブルトン語だ。唯斗が暮らしていたブルターニュ地方の言葉であり、日頃魔術の詠唱で使っている。現代フランス人も、シードルのようなブルターニュ地方の酒を飲む際にこの言葉で乾杯することがある。

この特異点は日本であり、旅館も日本風、つまり唯斗の第一の故郷の様相だ。一方、第二の故郷はブルターニュであるため、ワインを飲む際のかけ声にブルトン語を選ぶことで、この場に唯斗の二つの故郷を想起させているのである。

一気にワインを飲み干してから、唯斗はぽす、とサンソンの左肩に頭を乗せる。サンソンは小さく笑ってから、唯斗の頭をそっと撫でた。


「…サンソンが思ってる以上に、サンソンのそういう優しさに俺は救われてる」

「それなら良かった。戦闘力であまり強くない僕ですが、僕にしかできないことがあるのもまた事実。あなたの元で現界できて良かったです」


一時召喚の形で呼び出す回数として、サンソンに来てもらう回数は決して多くはない。しかしサンソンは、こうして唯斗の心に寄り添ってくれる。敵を倒すことよりも、唯斗の心を守ってくれることにこそ、サンソンが必要だった。
とりわけ、この厳しい異聞帯の戦いにおいては、こんな些細なサンソンの気遣いに、ひどく救われるような気がした。


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