神代巨神海洋アトランティスII−5
「ちょっと前置きが長くなったけど、このインド・イラン共通時代からの影響は、ギリシア神話における原初の神々にも見ることができる。諸説あるけど、まず世界にはカオスという何もない空間があった。インドでも『無明』というのちに仏教用語となる概念があるけど、世界に秩序や理がない状態で、ヴェーダ時代を指して言うものになる。何もないところから原初の神々が生まれていくという形式は、インド・イラン発のものだな」
『なるほど…それで、カオスからまず、大地母神ガイア、暗冥のタルタロス、性愛のエロスが発生するんだよね。あ、そっか、エロスがカーマにあたるものだから…』
「そう、インドから伝来した性愛の神カーマの概念は、極めて古い段階からギリシア世界に入ってきていた可能性もある。原初の神々にエロスが入っている理由は現代でも定かではないし、そもそもエロスが原初の神々ではなかったとする古代の哲学者もいた。けど、古代ギリシアにはオルペウス教という密教があって、神話形成過程にはすでにその教義を体系化していたんだけど、この教義は輪廻転生を含むインド的なものだった」
原初の神としてのエロスは、愛の神というよりも、光のようなものとして描かれる。カオス、タルタロスが先にあり、その闇に包まれた世界の中で、光が放たれるようにして最も美しい存在が生まれるのである。それがエロスであり、のちに旧約聖書において「神は言った、『光あれ』と。そして光があった」という創世記冒頭の文章にまで至る価値観だ。
あるいは、エロスは人間や動物が当然のように行う種としての行動、生殖を象徴するものとして自然哲学的に発生したとも考えられる。
のちにエロスは性愛の神としての性質を濃くしていき、やがて恋のキューピッドのような天使像にまで発展していくが、本来は美しい若い男性の姿で描かれるものだ。
「メソポタミアやインドは、大地と川の文明だったから、原初の神は地母神と天空神だったし、川は大地に属するものだった。あるいは水の神だな。一方、ギリシアは海と山の文明だ。だから、地母神ガイアからは、天空神ウラノス、海神ポントス、山神ウレアが生まれる。この3柱は、ガイアが自らの力だけで生み出している」
エーゲ海沿岸部は、海と狭い平野、急峻な丘と山々という起伏にとんだ地形をしており、これが平原と大河の文明であったインド・メソポタミアとの最大の違いだ。それは、人々にとって「何が最初に存在したか」という価値観に影響する。
そのため、カオスの時代が終わると、ガイアからは山と海と空の神が発生するのである。
「特に、初期のギリシア文明はクレタ島やミケーネといった島嶼部で発展してきた。それもあって、海の神ポントスの子は、内海の神ネレウス、入り江の神ポルキュスみたいに細かく分かれてる。ネレウスの子には海の女神テティスがいて、アキレウスは孫にあたる。ポルキュスは、同じくポントスの娘であり海の怪物や未知なるものの神であるケトと兄妹婚して、ステンノ、エウリュアレ、メデューサを生む」
『海は海でもいろんな種類ごとに神がいるってことか。面白いね。てか、エウリュアレってそんな古い神だったんだ…』
「さんざんこき使っておきながら…」
神話の中でもかなり初期に存在していた神性だ。第二特異点のステンノ、第三特異点のエウリュアレで唯斗が度肝を抜かれた気持ちがようやく立香にも伝わったようで何よりである。少し遅すぎるが。
「ガイアの次に、カオスからはエレボスとニュクスが生まれる。エレボスの語源はhregwesで、英語ではdark、古ノルド語ではrøkkrになる。北欧神話の学者は、ラグナロクのロクをこの言葉と間違えて、『神々の黄昏』という翻訳にしてしまったんだけど、実際には運命を意味する別の綴りの言葉がラグナロクの本来の意味だ」
『そっか、暗闇を黄昏って翻訳したってことか。うーん、そっちのが格好いいけど…』
「ギリシアにおける黄昏の神は、エレボスの次にカオスから生まれたニュクスの子、ヘスペリデスだな。これは文字通り、日が沈む方角である西の神であり、夕刻を象徴する神だ。英語、ドイツ語、フランス語でいずれも西を示す言葉の語源になってる」
英語とドイツ語でwest、フランス語でouestとなるのがヘスペリデスであり、太陽の沈む西、つまり夕方を意味する。
「もちろん、その父であり夜の神ニュクスはnightの語源nekと同じ語源だ。ヘスペリデスのほかにも子供がめちゃくちゃ多くて、死の神であるモロスとタナトス、眠りの神ヒプノス、夢の神オネイロス、応報の神ネメシス、運命の三女神モイラ姉妹なんかがそうだ」
英語で死を意味するmortalとdeathはそれぞれモロスとタナトスから来ている言葉だ。
ヒプノスは催眠という英単語hypnosisになり、ローマ文明ではソムニアという名前に代わる。インソムニアは不眠症を意味する英単語である。
ネメシスは割り当てるという意味のnemに由来する名前であり、英語では数を意味するnumberになるものだ。また、アストロノミー(天文学)、ガストロノミー(料理学)など学問の名称も、細分化された学術分野として〜ノミーという語尾がネメシスと同じ語源である。