神代巨神海洋アトランティスIII−7


「サンソンも、自分が英霊として相応しくないなんて言うことがあった。もう3年前の話だけどな。無実の人々を含む大勢を処刑した罪の意識が強くて。それでも俺は、サンソンは偉大な英霊だと思ってる。なぜなら、彼は法の執行と人権とのバランスという近代法学の価値観に大きな気づきを与え、サンソンの人生に、後世の欧州は死刑を廃止することを決めた。今、フランスは憲法で死刑を禁止している」

『そう、なんですね…今のフランスには、死刑がない……』

「コルデーは確かに、革命の急進的な進展を止められたわけじゃないし、結局その数ヶ月後には王室を含め数千人が命を落としている。それでも、コルデーは確かにフランスの歴史に刻まれた」

『…なぜ、なんでしょう。サンソンさんは分かります、彼は優しい人でしたから。死刑廃止を望んでいながら誰よりも死刑を執行した彼が、後の欧州から死刑を廃したのは納得できます。けれど、私が英霊になるなんて…それも、フランスの歴史に名を残すなんて。ただの暗殺者として、でしょうか』


フランス革命は、当初は立憲制を求めた穏健保守のフイヤン派や穏健左派のジロンド派によって進められたが、やがて急進左派のジャコバン派、さらに山岳派と呼ばれる極左勢力に取って代わられていく。
現在も、急進的な勢力を左翼、保守的な勢力を右翼と呼ぶが、これは革命時代のフランス国民議会において、急進勢力が議事堂の左側の議席に座り、保守的な勢力が右側の議席に着座していたことに由来する。

コルデーは恐怖政治を始めた急進左派政権に異を唱え、そしてジロンド派の粛正を行っていたマラーを暗殺するのである。


「フランス革命の混乱はナポレオンの登場まで続き、ナポレオンによる第一帝政がナポレオン戦争で崩壊すると、今度は革命が相次ぐ動乱の時代が始まる。やがて、何度も革命が起こることに嫌気が差した人々は安定した秩序を求めるようになった。そんな中で、人々を抑圧して暴力に訴える革命勢力や社会主義勢力はかつての山岳派に重ねられた。結果、山岳派の要人を暗殺したコルデーは、暴力革命を封じて秩序を維持することで国家を守る救国の英雄として認識されるようになった。それが1860年前後のことだ」


もともとフランス革命は、ブルボン王朝の絶対王政による放蕩財政と堕落した政治に民衆が蜂起したものだ。当初、政治に関心をもった人々はジャコバン修道院で集まって議論しており、革命を推進したが、やがて立憲制とするか、共和制とするかで真っ二つに割れる。
最初はフイヤン派が立憲君主政治を行おうとしたが、革命を封じ込めようと干渉戦争に及んだオーストリア帝国などとの戦争で敗北し、失脚した。
その結果、共和制を求めるジロンド派が政権を握ることになる。

しかしジロンド派はまず革命を終結させることに拘ったため、より完全な革命の遂行を求めた急進勢力である山岳派に駆逐され、国民公会政府が成立。恐怖政治を意味するテルールという政治が始まった。テルールはテロリズムの語源となるものであり、それほどまでに国民公会政府は反対する政治家や要人を処刑していった。
その執行役がサンソンだったわけだ。

やがて恐怖政治によってルイ16世とマリーの処刑などが行われたことで、周辺国からの外圧はさらに強まり、国内でも行きすぎた行動に反感が高まり、フランス全土で内戦に近い状態に陥る。
その中で、軍港トゥーロンにて一躍有名人になったナポレオンが台頭していき、混乱する議会をまとめあげ、さらに皇帝にまで上り詰めることになる。

19世紀初頭に皇帝になったナポレオンはナポレオン戦争と呼ばれる大戦争を欧州全域で開始し、ポルトガルからポーランドまでを支配するに至った。
最終的に諸国民戦争と呼ばれるライプツィヒの戦いでもって敗北し、ウィーン会議が開かれる。

1815年に締結されたウィーン条約でフランスにはブルボン復古王政が戻ってくるが、1830年の七月革命によってブルボン王政は崩壊させられ、ブルジョワジーによる七月王政が始まる。

ブルジョワジーの七月王政に対して、今度は1848年に社会主義勢力が反旗を翻し、二月革命が勃発。そうして始まった第二共和制は社会主義に基づくものであったが、当時の社会主義はまだ洗練されておらず、国家は瞬く間に混乱。
その混乱にあって、かのナポレオンの甥であるナポレオン3世が舞い戻ってきて選挙に立候補し大勝、民主主義によって皇帝に即位し、フランス第二帝政が始まるのである。


「フランスで再び皇帝が即位したのは、それだけ人々が秩序を求めていたからであり、何度も武装蜂起でパリを炎上させた社会主義勢力に対して嫌悪感が高まっていたからでもあった。暴力や革命に対する反感は、秩序を求める声になり、それはかつて暴力にたった一人で立ち向かったコルデーという英雄に託されるようになった」

『そ、そんな…私はそんな大層なことをしたわけではありません。カーンの修道院で拗らせた小娘が、一人で突っ走っただけのことだったはずです』

「女性は断頭台に上がる権利があるのだから、議会の演題に上がる権利もある。そう述べたオランプ・ド・グージュの言葉通り、コルデーは後に二月革命期以降のフランス・フェミニズムにおいて、一種象徴的な存在でもあった。少なくとも、女がただの家具ではないということを、殺人という行為ではあったけど示してみせた」


259/359
prev next
back
表紙へ戻る