残滓と余波−13
その日のうちにサンソンがルーブル美術館の存在を聞き出してくれたため、デオンがルーブル美術館のスタッフに扮してこの美術館に電話で連絡を取り、今日中のアポイントメントを取り付けた。さすが、ルーヴルの名だけで強引なアポを取ることができた。
ダ・ヴィンチもすぐに素描を仕上げてくれたため、召喚術式でこの空間に転移し、ジュラルミンケースに入れて唯斗はスーツ姿で美術館を訪れる。といっても、スーツ姿というのは暗示魔術礼装によるもので、実際にはいつもの黒い極地礼装である。
「本日はようこそお越しくださいました。まさかルーブル美術館の方がお越しくださるとは」
「こちらの美術館の噂もかねがね伺っていますよ」
出迎えたスタッフに挨拶をして館内に入り、応接室に通される。柔らかい上等なソファーに座ると、すぐに館長が現れた。
なぜか目元だけを隠す仮面をしており、表情が窺えない。
「はじめまして。私は当館の館長でございます」
「…?はじめまして」
名前を名乗らなかった男は、どこか不思議な気配の持ち主だ。正直、人間ではないような、まるで幽霊かのような、そんな存在感のなさだ。もちろんサーヴァントではないが、普通の人間とも思えなかった。
当然か、この美術館が特異点の中心なのだから、十中八九、館長は何かを知っている。
館長はガラステーブルの向かい側のソファーに腰を下ろす。
「それで早速ですが。なんでも、モナ・リザや聖母子像の素描が見つかったとか」
「ええ。ちょうど、元の持ち主との交渉も終えて買収を終えたところです。帰り道ではありますが、こちらの館長がぜひ、この美術館と共同で特別展を開催したいとの意向でして」
「なんと。フランス政府がよく許可を出しましたね、新しいダ・ヴィンチの素描など」
「もちろん、こちらに展示されている名品をルーヴルで展示する特別展を開催する、という一大イベントのため、ですが」
「なるほど……」
館長はわずかに迷う表情になった。どうやら、ここの美術品を持ち出すことに強い抵抗感があるらしい。
気持ちは分からないでもないが、相手はあのルーヴルだ。箔がつく、という意味でも、恒久貸与でもないのだから二つ返事が来ると思っていた。
少し間を置いてから、館長は唯斗に尋ねる。
「…ちなみに、ルーブル美術館では我が美術館のどのような品について、特別展を開催したいとご希望です?」
「共同開催であることに意味がありますから。我々が単独でフランスの、そして世界の美術を担っているわけではありません。グローバリゼーションに合わせて、美術館もネットワークを拡大してゆくべきです。よって、基本的には選定はそちらにお任せします。ただ…」
「ただ?」
「…パリ大司教は、こちらの美術館で所蔵される聖杯について、関心を示しています。話題にもなっていますからね。本当の聖遺物なのか、あるいは、『奇跡』に纏わるものなのか。パリ大司教は、先日この一件に関してヴァチカンとも協議しています」
「っ、」
館長は息を飲んだ。
パリ大司教は、ノートルダム大聖堂を司教座聖堂とするパリ司教区の主であり、フランス・カトリック教会のトップだ。
聖遺物、あるいは奇跡というものを冒涜するものではないのか、という疑念を抱いているというようなニュアンスとして館長は受け取ったことだろう。
「ヴァチカン美術館からの打診ではありますが、聖杯についてはルーブル美術館の知見を聞きたいとのことです。もちろん、ヴァチカン美術館を通して実際にそれを求めておられるのは…言うまでもないことです。ノートルダムからも、同じように要請されています」
「なる、ほど…」
ヴァチカン美術館も、イタリアトップクラスの美術館であり欧州でも最も権威ある美術館の一つだ。そして、ヴァチカン市国の美術館でもある。
権威あるルーヴルからの打診、さらに後ろにはパリとヴァチカンのカトリック教会も控えている。ここまで状況が揃ってもなお反発するというのであれば、それはもう、異常なことだ。
「…少し、お時間を」
「もちろん。近くにホテルを取りますので、しばらくは特別展に向けての実務的な話や、そちらでの選定をお伺いします。聖杯については後日で結構ですよ。そうだ、せっかくです、素描をご覧になりますか?」
「それは、ぜひ」
唯斗はジュラルミンケースを開けて、さらに中の小箱のロックも外して素描を見せる。仰々しいが、中に入っているのは本物の偽物だ。だが館長は眺めるなり、その目元を緩めて「素晴らしい」と呟く。
怪しい人物ではあるが、美術館の館長としては「本物」だ。その点ではさらに不思議だった。いったい何が目的で、ここまで聖杯を手元に置いておこうとするのだろうか。もちろん、そのような力を持った代物ではあるが、それに惑わされているのならより理性を失った反応を取るはずだ。しかしこの男には、聖杯に狂わされた様子はなかった。